「未分類」カテゴリーアーカイブ

「もっと知りたい在日コリアンの今」に参加して。-私の中の朝鮮―

                              村田民雄
 10月20日の講演会のチラシ作成の依頼を受け、タイトルから内容に興味を持ち、講師の著書『裁判の中の在日コリアン』を読み、さらなる興味から講演会に参加させていただきました。法政OB九条の会主催ということなので、30名位の講演会を予想して出かけたのですが、その半数ほどのアットホームな参加者に少し拍子抜けでした。一方で40数年前法政で知り合った仲間が、今でも当時の思いを胸に護憲運動に関わっていることに感動したことも事実です。講演会後の飲み会も有意義でした。これまでの体験もまじえて感想をまとめてみました。

 ふた昔も前のことになります。馴染みのスナックSはHさんが経営する店でした。Hさんは在日コリアン二世、両親は日本に来て成功し二人姉妹とも大学を修了しています。日本に生まれ育ったので普通に日本語を話し、日本名を名乗っているので在日コリアンであることは一般の客はわかりません。特に国籍を隠しているわけでもなく、この店のウリは朝鮮人参の入った朝鮮酒でした。 あるときHさんも加わって「チョーセン談義」になりました。Hさんは、よっぱらったお客さん同士が「このチョーセン野郎」「チョーセン」とふざけ合う中、感情を抑えながら「笑顔」で接客してきたと言いました。また子どもの学校を選ぶとき、迷った末に地元の小学校を選んだが、4年生あたりから「こんなに日本人がいっぱいいるのになんでボクを朝鮮人に生んだんだ」と暴れるようになり、学校にいかなくなったといいます。
さらに、池上線千鳥町駅で電車まちをしていたときの古い記憶が自責の念とともによみがえりました。池上線は生活道路とほぼ並行して走っています。ホームにいた朝鮮初級学校の小学生に向かって日本の小学生が「チョーセン、チョウセン」とはやし立てて石を投げだし、そこに居合わせた数名の大人たちは誰も咎めることもなく見過ごしたのでした。金弁護士の言った「励ましでも謝罪でもなく」、何故「加害者にやめろ」と言えないのかという言葉が今更ながら心に突き刺さりました。
 山形の田舎町に暮らしていて、在日コリアンや部落差別は日常的にはほとんど体験することはありません。しかし、在日コリアンに対する潜伏している意識は言葉の端々に無意識にあらわれます。それは日韓の長い歴史のなかで刻まれた、日本人すべてにわたる差別意識です。かつてカメラのコマーシャルに「バカチョンカメラ」というコピーがありました。「誰でも簡単に使えるカメラ」という機能を「バカでもチョンでも」と表現したものですが、「チョン」は朝鮮人の蔑称として使われてきた言葉です。そのことを指摘されたメーカーはすぐに「ジャスピンカメラ」に改めました。おそらくコピーライターは差別する意識はなくその語源も知らなかったのでしょう。「バカチョン」は今でも生きていて、革新的と言われる人々の何気ない会話にも顔をだします。
 金弁護士の講演「在日コリアンの今」は、差別される側の人間として生きてきた半生を語る肉声でした。私たちが過去の事件として知っている寸又峡事件、小松川事件、指紋押捺拒否、サハリン残留韓国人問題などは、戦後日本の政治のなかで在日コリアンがおかれた過酷な差別状況と深く結びついています。そしてそれは日本人の意識をあぶり出すのです。歴史認識にしても、「日韓併合により日本は韓国のインフラ整備に資金を投入し戦後の発展の基礎をつくった」「従軍慰安婦はビジネスだった」「創氏改名は仕事を得るために自ら望んだものだった」といった言説が政治家の口からためらいもなく飛び出し、その口で「何度謝罪すれば気が済むのだ」という。そんなに韓国のためを思って併合をしたのなら、感謝されこそすれ、一度たりとも謝る必要などないのにという矛盾にも気がつかないのです。
 平和運動、護憲運動の中に侵略者側の視点があるのだろうかという指摘は改めて問い直す必要があると思います。児童文学の世界でも「戦争の悲惨さ」だけが強調され、アジアに対する加害者の視点に立った作品が少ないことが指摘されてきました。上野動物園の動物の慰霊碑はあっても、関東大震災で虐殺された朝鮮人の慰霊碑は一つもないという事実にはいまさらながら驚かされました。まさに視点の欠如を突かれた思いでした。
 金弁護士の目からウロコの話と、当日集まった九条の会の皆さんに刺激されました。未来を語るには少し歳をとりすぎ、大きなことはできませんが、これまで見過ごしてきた小さな理不尽の見直しから始めてみようと思います。

さあ!デモにいこう!

文芸評論家の柄谷行人(からたに こうじん)氏は、この間反原発のデモに参加し、朝日新聞に取り上げられ、ツイッターなどでも彼の行動が伝えられているようです。
 柄谷氏は吉本隆明を師と仰ぐどちらかと言えば「行動しない人」でした。
ここでのアジは、2011年9月11日に新宿で行われた反原発集会・新宿アルタ前でのもです。
 ぜひご一読ください。
《この4月から反原発のデモに参加しています。このアルタ前でも6・11デモにも参加しました。
 私がデモに行くようになってからいろんな質問を受けます。しかもたいがい否定的な質問です。
 そのひとつは、「デモで何が変わるのか?デモで社会を変えられるのか?」というものです。私はこう応えます。もちろんデモで社会を変えることができる。確実に変えられます。なぜなら、デモをすることで、デモをする社会をつくれるからです。」
 「考えて欲しい。今年の3月以前に、日本には沖縄を除いてデモはほとんどなかった。それがいま日本全国今日も多分100ヵ所以上でデモが行なわれています。その意味で、日本の社会はすこしは変わった。これは明らかです。
 例えば、福島原発の事故のようなことがドイツやイタリアで起こればどうなるか、あるいは韓国で起こればどうなるか、巨大なデモが国中に起こるでしょう。しかしそれに較べれば、日本のデモは異様なほどに小さい。しかしそれでもデモが起こったことは凄い、救いであると私は思います。
 デモは主権者である国民にとっての権利です。デモができないなら、国民は主権者ではない。例えば韓国では20年前までデモは出来なかった。軍事政権があったったからです。
 しかし、その軍事政権を倒して国民主権を実現した。デモによって倒したのです。そのような人たちがデモを手放すはずがありません。
 では、日本ではなぜデモが少ないのか?なぜそれはヘンなことだと思われているのか? それは国民主権を自分の力で、闘争によって獲得したからではないからです。日本人は戦後、国民主権を得ました。しかしそれは敗戦によるものであり、事実上占領軍によるものです。つまり自分で得たのではなく、与えられたものです。ではこれを自分自身のものにするためにはどうすればいいか?
それはデモをすることです。
 私が受けるもうひとつの質問は、「デモ以外にも手段があるのではないか?」というものです。たしかにデモ以外にも手段があります。そもそも選挙があります。その他さまざまな手段があります。しかし、デモが根本的です。デモがある限りその他の方法も有効になりますが、デモがなければそれらは機能しません。いままでと同じことになります。
 さらに私が受ける質問は、「このままデモは下火になっていくのではないか?」というものです。戦後日本には幾度も全国的な規模のデモがありました。しかしそれは長続きしなかった。今回のデモもそうなるのではないか、というわけです。たしかにその恐れはあります。マスメディアではすでに、「福島の事故は片付いた」、「ただちに経済復興に取り組むべきだ」というような意見が強まっています。ところがそんなことはない。福島ではなにも片付いてはいないのです。しかし当局やメディアは片付いたかのように言っている。最初からそうです。彼らは最初から事実を隠し、たいしたことはなかったかのように装ってきたのです。ある意味でそれは成功しています。多くの人たちがそれを信じている。信じたいからです。そしたら、今後に反原発のデモは下火になっていくことは避けられない、というふうに見えます。
 しかし違います。福島原発事故は片付いていない、今後もすぐには片付かない、むしろ今後に被爆者の病状がはっきりと出てきます。また福島の住民は永遠に郷里を離れることになります。つまり、われわれが忘れようとしても、またじっさいに忘れても、原発の方は執拗に残る。それはいつまでも続きます。原発が恐ろしいのはこのことです。それでも人々はおとなしく政府や企業のいうことを聞いているでしょうか。そうであれば、日本人は物理的に終わりです。だから私はこう信じています。第一に反原発運動は長く続くということです。
第二に、それは原発にとどまらず日本の社会を根本的に変えるちからとなるだろうということです。
 みなさん!粘り強く闘いましょう!

大飯原発再稼動反対!緊急ネット署名

以下をクリックしていただき、緊急の署名をお願いします。 木村誠

◆緊急オンライン署名
大飯原発3・4号の再稼働を断念するよう求めます
-悲惨な福島原発事故を直視してください
-事故の責任もとれないのに「私の責任で」と言わないでください
-安全性はすべて置き去りなのですか
http://e-shift.org/?p=1994
是非、署名をお願いします。

https://fs222.formasp.jp/k282/form2/

4月30日はベトナム解放記念日

佐賀の山下です。

1975年4月30日、サイゴン陥落と南ベトナム崩壊。

南部解放記念日とも呼はれ、サイゴン陥落を指します。

当時、全世界で、翌日のメーデーで喚起の声で盛り上がりました。

わたしは、青春真っ盛り。

ベトナム反戦、沖縄返還のたたかい、暴力学生のテロ反対、大学民主化の運動に参加し、学内で授業が受けられず、学外ゼミなどで、経済、社会問題での思想・哲学、方法論、史観などを、いまわ亡き恩師から学びました。

学んだ学部は教授も変わり、社会政策ハウツー的に変質したようです。

わたしは、69年入学、71年に退学しました。

松田さんが全共闘一派に襲われた1年後の退学。
ベトナム解放時は佐賀県鹿島市で共産党専従をしていました。市内のメーデーでの歓声とも驚きの声は、いまでも覚えています。

ベトナム解放から37年、米国は政治・経済面で相対的力を低下しまがらも、いまでも、軍事支配体制は変わらず、従属国に経済・軍事負担を押し付けています。

いま、野田首相が米国参府し、臣下の礼をしています。

この九条の会が、日本国民の未来を切り開く世論喚起の一翼になってほしいと思います。

松田さんを支え、そして、このメーリング・ポスト、HPを支える皆さんに感謝し、わたしも佐賀で、政治刷新の運動を続けていきたいと思います。