「川上徹さんとのお別れの会」に参列して

お別れ会今年1月2日、川上徹氏が逝去されました(享年74歳)。

64年再建全学連委員長、66年から72年まで民青中央常任委員を務め、新日和見主義批判で査問を受けた川上氏(40年生まれ以下同じ)のことは多くの方が知っておられることでしょう。

1月24日、日本青年館国際ホールで開催された「川上徹さんとのお別れの会」は300名の友人や偲ぶ方々で満席でした。12名の「お別れの言葉」とご子息の「お礼の言葉」を受けて、参列者全員の献花で締めくくられました。

実行委員長の梓澤和幸弁護士(43年)から法政大学OBにと案内状が届き、Y・K、M・K、J・Yが参列しました。私たちは2000年、法政大学学生運動の歴史編集委員会を立ち上げる際に川上氏と懇談させていただいたことがあります。

同時代社のHPでは実行委員に「素描・1960年代」共著の大窪一志氏、民青中央でともに活動した宗邦洋氏、「突破者」著者の宮崎学氏(45年)、ジャパンプレスの高野孟氏(44年)などが名を連ねており、会場では全学連元委員長の永戸祐三氏(47年)らをお見受けしました。受付でいただいた同時代社の袋には「お礼の言葉」や「お別れの言葉」そして同時代社出版録などが同封されていました。

略歴には「亀戸で生まれ。60年東大入学と共に日本共産党に入党。80年同時代社設立。90年日本共産党を離党」とあり、著書は『もう一度船を出せ』『査問』『アカ』『素描・1960年代』『戦後左翼たちの誕生と衰亡』と書いてありました。

「病状報告」によると2009年ごろから手足の痛みで、帝京大学付属病院で治療を受けていたが、病気をおして活動を続けたものの、2014年胃がんを告知され手術ができず、2015年1月2日永眠されたとのことです。

(喪主) 川上蓉子さんの「お礼の言葉」(抜粋)

60年大学生・青年運動のリーダーでしたが、10年余りで突然活動の場を失い、全ての道を断たれた40年余りの歳月、その後の生き方こそ川上徹の真骨頂であった。彼にはもう一冊書きとどめたいテーマがありました。

「45年の敗戦を幼児期で迎え、戦争の痛みのカケラを実感として受け止め、戦後の貧しさの中から明日への希望を求めて、60年安保を担った僕らの世代。しかし、時代の急速な変化がその世代を消した。左翼と呼ばれた様々な組織も今や消え去ろうとしている。それは左翼の側にも問題があったはずだ。僕らが見ようとしなかったもの、気がつかなかったもの、それを少しでも掬い取って、記録として残したい」

ノンポリの学生に過ぎなかった私が、彼に出会ったのは私にとって奇跡でした。彼が残してくれた沢山の物語と人が、私を勇気づけてくれるだろうと思っています。

配布されたお別れの言葉から(92名の中から抜粋)

高野孟氏(44年)

我々60年代を駆け抜けた世代が、もう一度頑張るとすれば、いったい何をどう頑張るのか、何度も話し合ってうまい答えが見つからないまま貴君はいなくなって、少々途方にくれていますが、なんとかその宿題を背負って生きていこうと思っています。

山科三郎氏(33年)

今、私の机の上に一冊の本があります。『トロツキズム』で、1969年に私と貴方とで編纂したものです。今から見れば問題だらけでも、20歳代の思考面目躍如たるものがあります。

田中武雄氏

1965年6月教養学部自治会再建となった時、法政大学での集会で川上さんから励ましと祝福を兼ねてのあいさつを受けました。

加藤哲郎氏(47年)

『査問』に解説「査問の背景」を書かせていただきました。そこに1972年に川上さんが「君が消えてくれるのが一番いいんだが」と査問者に言われたことを引き、「共産党が党史上最大規模の人権抑圧事件の被害者たちに謝罪するのは、いつになるだろうか」と結びました。あと10年、生き続けていただければ…。残念です。合掌。

吉田嘉清氏(26年)

84問題の時、西神田の同時代社川上徹さんはその場で水道橋の事務所を世話して下さいました。『古在由重 人・行動・思想 二十世紀日本の抵抗者』は同時代社から出版しました。いつも大同団結を心がけてくれた友よ。さよならだけが人生か。

お別れの言葉を述べた12名の中から

平田勝 花伝社社長

65年12月の全学連再建から50年。60年代学生運動の希望の人だった。戦後民主主義世代として育った。61年夏、党綱領決定の時は駒場の党員は数名だった。それが駒場本郷で民青1.000名となり東大生の一割となった。全国でも6つ7つあった。72年の政治的事件に連座し、その後学生運動は急速に衰退した。一つの時代、未完の時代が終わった。君の意思を引き継ぐことを信じるよ。

宗邦洋氏 民青元中央委員

12月11日、コレコン忘年会で飲んだ時は「やり残したことがある。あと5年生きる」と言っていた(これからの社会を考える懇談会)。民青中央の多数派が形成され、民青会館は楽しかったが党は弾圧で応えた。新日和見主義の連中で毎年一回集まり楽しい日を過ごしている。私は後5年頑張りたい。

山崎耕一郎氏(40) 社会主義協会顧問

2001年、三池闘争写真展をきっかけに共産党系、社会党系、新左翼系から三分の一ずつ集まりコレコンを始めた。三分の一のバランスが崩れないように集まってきたことで長生きしてきた。新左翼グループの代表的存在であった樋口篤三さんが2009年に亡くなり、川上さんが亡くなりコレコンのバランスが崩れてしまった。

高柳新氏(39) 民医連名誉会長

いくつかの顔の持ち主だった。学生運動のリーダー、古在・藤田・丸山の後継者、出版者。飲み仲間で医師としてセカンドオピニオンだった。もう一度船を出せの思いでいっぱいだ。

梓澤和幸氏(43) 全学連元委員長

62年11月27日、大管法反対・日韓条約粉砕集会(芝公園)で演壇の姿を見たのが初めての出会いでした。当時22歳と19歳。60年代学生運動の希望を託した凛然とした川上さんでした。査問後の孤独は彼の義侠心を侵すことはできなかった。古在、藤田と共に託そうとしたこと、次世代につなげることは言葉にしても伝えられない。2015年、大事な年の今日は始まりの日だ。母のように優しく見守って下さい。ある時は憤りの龍となって立ち上がれ。19歳の春に考えたことに立ち戻れ。

川上隆(高井隆)

父とは15年一緒にやってきた。父と同じことができるとは思っていないが、同時代社の旗を掲げ続けることが皆さんに報いることだと思っている。

あとがき

『学生運動:60年から70年へ』(日本青年出版社)が最初の出会いでした。学生時代に新日和見主義批判が始まり学友から「法政は無関係だよ」と聞きましたが、その後急速に学生運動が衰退していったことにずっと疑問を持ってきました。97年の『査問』でその実相の一端を知り、学生運動=全共闘というマスコミの喧伝に全学連の一員として闘った法政大学の学生運動を残そうと川上さんのお話を聞いたのが2000年でした。「まじめで大事なテーマだ。作る側の満足が大事だ」と励ましてくれました。「お別れの会」出席者の多くは60年代世代。70年代世代の私にとって「一時代が終わった」のは理解できても、このままでは終われないと思っています。    (JY)

2015年3月号会報(NO21)

法政大学Ⅱ部九条の会

本号の主な内容

*法政大学の最近状況レポート(校友会が創設されました)

*一斉地方選で奮闘中の同窓生紹介 *「平和の申し子たちへ」

*<惜別> 安藤三四郎さん「逝ってきます」

*辺野古基地新設阻止を  *投稿・川上徹葬儀に参列して

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★母校・法政大学の最近状況レポート

「自由と進歩」の原点重視、大きな変化あり

学内での企画実現へ、知恵と情報の集中を

昨年、一般社団法人「法政大学校友会」が新たに創設されたことを耳にしたため、母校の状況をリサーチして、いくつかの面からまとめてみました。情報を寄せていただいた学内外の皆さまに感謝いたします。

(1)学生自治会は壊滅状態、中核派も学内での宣伝はできず 123

まず、学内状況ですが、学生自治会は壊滅状態のままです。

「中核派」は自治会を名乗っているものの、学内では活動できずに本校の正門前で宣伝行動。「不当逮捕」に抗議などと叫んでいますが、基本的に彼らは校内立ち入り禁止措置になっています。なお、中核派は衆院8区(杉並区)で候補者を出し16,000票を得ており、杉並の区議もいて同区が拠点となっています。

大学は2000年頃に10数年ぶりの学費値上げをしましたが、反対運動は全く起きず。説明文書を学内に置いても手に取る学生は少なかったそうです。当時はまだ自治会費を代理徴収で中核派に渡していたためか、中核派も反対しなかったのだろうと言う方がおられました。

800万円の自治会費は前期・後期に分けて、驚きましたが、現金で渡していたようです。しかし、自治会費の代理徴収は、大学側が自治会成立状況などをチェックして順次やめていき、現在に至ります。

(2)Ⅱ部廃止・新学部誕生の結果、大学財政が改善

2005年に、当時は勤労学生の需要が従来に比べ激減していたこともあってⅡ部の募集を順次停止していましたが、最後に残っていた文学部教育学科と経済学部商業学科を「キャリアデザイン学部」として改組し、発足させました。大学が予想していた以上に同学部の人気が高く、Ⅱ部の学費をⅠ部並みに変えたことも相まって、結果として、余裕が少なかった大学財政を改善させることになりました。

(3)教職員組合は3つ。職員は学部が増えたのに約400人のまま

教職員組合は現在、3つの組合があり、大学側は交渉を3回やらなくてはならず、手間が増えて担当者は大変だという声がありました。

組合の組織率は5割程度で、特に教員の組織率が悪いそうです。職員の専任数は約400人で、昔とそれほど変わりないものの非正規が増えています。学部が増え事務量も増えたのに正規職員は増やさず非正規職員で対応という、今の日本の労働状況がここでも。

・全法政(法政大学教職員組合)=2014年11月に創立60周年記念祝賀会を開催。

・第一職組(法政大学第一職員組合)=全法政から脱退した一部の職員でつくった第二組合。

・新法政=教養部の教員中心に全法政から脱退した第二組合。

(4)15の学部となり、各教授会は民主的な雰囲気があると――

学部は現在、15あります。清成総長時代に6学部→10学部→11学部となり、平林総長及び増田総長時代に現在の15学部になりました。

法政一高は吉祥寺にあり(以前の場所から移転)、「法政大学付属中学高等学校」に名称を変更し、同時に男女共学となりました。法政二高、法政大学付属第二中・高等学校は、現在、川崎市の木月に150億円をかけて建て替え中です。女子高、法政大学女子高等学校は横浜市鶴見区(京浜急行・生麦駅)にあります。

教授会も15学部あり、集まると「やせても枯れても法政の学部長会議」という雰囲気があり、民主的ではあるというのが、話を聞いた方の弁でした。

(5)総長の統治システム強化に反対の運動を反映し、新総長と理事会が誕生

文科省は現在、学長権限の拡大を図ろうとしていますが、それに先立って法政では平林総長(当時)が学部教授会の権限を総長に集中させるガバナンス(統治システム)を企図したため、「法政大学のガバナンスを考える会」が教職員により結成され、全学的な反対集会やニュースを出して反対の動きが活発化しました。(注:法政は総長、学長、理事長が同一人)

そのメンバーの多くが推したのが前総長の増田氏であり、現総長の田中優子氏に続きます。

当時の清成総長らは、職員が自分たちの管理者である理事を選ぶのはおかしいと言い、職員の代表理事は選挙ではなく推薦にしてしまいました。

(この経過は雑誌『前衛』2014年5月号、いま「大学改革」を考える、土井誠論文を参照)

こうした学内統治のやり方を文部省が進めているのです。要するに、教授会は学生の成績認定など学事に関する事項だけに制限するというのです。

昨年の総長選挙では田中優子氏が選出され、大きく報道されました。学内の方の話では、対抗馬の浜村氏(法)も「ガバナンスを考える会」に沿っていたのですが、大方の予想を覆して田中優子さんが多くの支持を得たということのようです。

現理事にも民主的な方が選出されていて、全体としてはまじめな理事会と言えるようです。

文科省が「スーパーグローバルユニバーシティ事業」と銘打って、世界に打って出る大学づくりを推進しています。大学を選別して補助金を出すやり方とも言えますが、法政大学は選ばれた2群24大学の中に入り、10年間毎年5億円の補助金をもらえることになりました。中央大学や青山学院は入っていません。最近の法政はスポーツ面では元気がないが、学術分野で気を吐いたと、学内では評価されているそうです。

(6)新しく一般社団法人の「校友会」が発足しました。毎年2億円の会費収入

以前は「校友連合会」でしたが、金銭にからむ問題が指摘されたり(例えば、評議員になれば地元名士になれるとおカネが動いていたという話も)、運営面での課題もあったようで、大学、後援会(在学生の父母で構成)と3者で協議し、新たな組織「一般社団法人 法政大学校友会」として発足しました。

弱体化した経費補助の意味もあり、在学生から3年次に入会金3万円を授業料と同時に徴収(大学の代理徴収)し、卒業時に校友会に納金されます。約7,000人から3万円、毎年2億円が校友会に入ることになります。将来、校友会館建設のため65%を基金に、35%が校友会運営費になります。

莫大な資金が積み立てられていくことになるので、当然、財政管理が重要ですから、大学から総括本部長が監事として就任しています。

◆ 卒業生も3万円の終身会費を払えば、校友会員になれます

全国には40万人(公称)の同窓生がおり、3万円の終身会費を払うと卒業生も校友会員(終身)になれます。終身会員が増えると、その同窓会は影響力が出る可能性があります。校友会が学外理事4人の枠を持つので、大学の理事選挙でも優位になるかも知れません。大学理事会は(学内を含め)11人で構成されており、大学運営に一定の力を発揮できるからです。学内のある方は、「理事会は全会一致が慣行なので反対ばかりしているわけにはいかないですが…」と語っていました。

校友会の理事会には学部の各同窓会からも理事が選出されています。定員は3人で法、経、営から出ていますが、社会学部からは出ていません。

≪校友会のホームページから≫

「一般社団法人法政大学校友会(以下、校友会)は、学校法人法政大学が設置する学校の卒業生および教職員(就任2年以上)の会員をもって組織されます。校友会は、全国各地の地域支部、学部・付属校同窓会、職域やサークル関係の卒業生団体と、個人加入の会員により構成されています。また、これに加えて2014年3月以降の卒業生は、卒業年度ごとに原則一斉加入する「年度同期会」を通じて校友会に参加することになります。」

(7)大学内での集会・企画の可能性は?

九条の会として学内で教職員や学生とともに集会などを開きたいという希望があるということを、学内の方々に打診してみましたが、反応をまとめると次のような内容になります。

「みなさんの企画は素晴らしいことだが、教職組への組合加入率が減り意識が低下している」

「仕事、仕事で追われ、自分のことで手いっぱいという現状もある」

「学内では平和問題などの情報は少ない。学内からの発信や若い人たちに知ってもらうことは大事だと考える」

「東京学者研究者の会(共産党を支援する)が飯田橋駅頭でたまに宣伝している」(東大では正門前で)

「大学の沖縄文化研究所が2014年4月、大江建三郎さんの講演会を開いた。屋嘉宗彦教授(法学部)が所長で、彼は沖縄出身。2015年に日中友好協会と共催で戦後70年の集会を検討している」

(8)55年館、58年館を建て直し、広場は新建物の南側に移る

「3.11」の地震で511番教室の天井が落ちたため、55年館と58年館を建て替えることになり、先行して55年館前の広場に新校舎建設の工事が始まっています(両館を解体撤去し、跡地は広場となる)。

教室使用の管理は学務部の管轄。教室が空いている時間とその他施設は子会社を作り管理しています。料金は1日単位で、一般の学外者は教室使用の申請をしないと借りられないが、使用料は高額。学会は無料。教室が空いている時に使うのは可能であるが、教室が足りないのが現状で、簡単ではないそうです。

有力な教員が「やりたい」と言えば学内集会をやれないことはないものの、政治的な集会には「中核派対策をやっているのに余計なことはしないで欲しい」という反発もあると思われ、信念を持っている教授でないと困難ではという声がありました。こっちには許可し、中核派には貸さないとは何だということになってもめる可能性を心配する大学関係者もおられます。

以前「法政平和大学」が学内で開かれていましたが、中心的教員が退職し、現在はどうなっているかは、今後リサーチしたいと思います。

  • 学内での企画実現をめざして

本校の正門前での宣伝は、公道ですから、大学の許可などは必要ありませんから、やれないことはないですが、中核派などと混同される懸念があります。

多摩キャンパスは可能のようです。中核派がいないことが大きな要因でしょう。

社会学部の田中優子総長が「そろそろ『社会運動』の話をしよう――他人ゴトから自分ゴトへ。社会を変えるための実践論」(2014/10 明石書店)を出しています。政治的な活動ができないわけではなく、ゼミで日常的な教練をしているほどですから。

実現には、主体となる教員探しが先決ではないかと思います。九条の会の世話人会でネットワークを駆使して教授陣とのコンタクトを探りましょう。知り合いが意外とあるのではないでしょうか。「情報を世話人会へ!」と強調したい。(M・Y)

 

兵庫・尼崎から複数県議に挑戦、たたかいます

庄本えつこ=旧姓・平野)                                  456

法政大学OBのみなさま、1974年Ⅱ文教育学科入学の庄本えつこ(旧姓平野)です。1991年に夫の転勤に伴って兵庫県西宮市に引っ越し、日本共産党尼崎地区委員会の勤務員になりました。勤務員の仕事は多岐にわたります。市議団の事務局長をやったり、各大衆団体の役員も引き受けたり…などするうち、1998年の秋に県議会議員補欠選挙に出ることになってしまったのです。

  • 「ベテラン候補者」で、12月の総選挙が最後のご奉公のつもりが… こう見えて(どのように見えるかはわかりませんが)、私はシャイなのです。「人前で演説するなんて、できません」と断り続けたのに地区委員長の粘りで押し切られてしまいました。「一度だけのご奉公」のつもりでした。結果は当選できませんでしたが(ホッ!)、五党連合65,000票に対し共産党の私51,000票と善戦したということが地区委員会の記憶に刻まれ、2003年の衆議院比例・兵庫8区小選挙区重複立候補や、またまた県議会補欠も含め昨年12月の総選挙まで7回も候補者活動をしたのです。周りから「ベテラン候補者」と呼ばれたりしました。もう60歳だし、これが最後の選挙と決め、元気に楽しく総選挙をたたかいました。

私は、安倍自公政権の暴走ストップの選挙にしたいと思って、政治の5つの転換―「消費税増税は、先送りではなくキッパリ中止!」「アベノミクスストップでくらし第1」「集団的自衛権行使容認の閣議決定は撤回」「原発ゼロ」「新基地建設中止!平和で豊かな沖縄をご一緒に」とともに、日本共産党の値打ち―共産党の躍進こそ政治を変える確かな力であることを訴えました。

  • 私は、当選には及ばなかったものの6万を超える得票をいただき、日本共産党は21議席に大躍進 比例近畿ブロックで兵庫の堀内照文さんを含み4人の当選。兵庫では10年ぶりの国会議員です。本当にうれしいです。どこに行っても、誰に会っても「よかったですね。うれしいですね」と言われました。

でも、これからが勝負だと思っていました。安倍政権は、数とお金の力で国民の要求をねじ伏せようとしています。

「消費税が上がって買い物に行くのが怖い。食料品は割引シールが貼られてからしか行かないことに決めた」「正社員なんて夢のまた夢。結婚もできない。家族を持てないまま老後は孤独死か」「奨学金を返し始めて9年以上になるけどまだ100万円残っていてしんどい」「医療費が高くて、病院に行けない」など、これが国民の声です。こんな時、地方自治体は「住民のくらし第一」で仕事をしなければならないはずです。しかし自民、民主、公明、維新など日本共産党以外のオール与党の兵庫県政は、安倍暴走政権に対決するどころか福祉を削る「行革」で弱いものいじめばかり。本当に兵庫県はひどいんです。

尼崎は8年前まで2議席を確保していましたが、定数が7に減らされ共倒れしてしまい4年前の選挙は1人に絞りました。「共産党が躍進し市民から期待を寄せてもらっている今、1人の議員でいいのか。2人にすべき」の声がいろいろな方面から出され、侃々諤々の議論の末、来る県議会議員選挙に立候補をすることになりました。私にとっては新しい決断です。2人を勝ち取ることは生半可ではできません。しかし決断した以上「尼崎市民のいのち・くらしを守るために」必ず勝ちたいと思います。ぜひ、応援して下さいね。よろしくお願いします。

最後になりましたが、みなさまのますますのご健勝とご活躍をお祈りいたします。(2015年1月29日)

神奈川・川崎で GOTO 県政!

後藤真左美、1985年社会学部入学)

 川崎区から日本共産党より神奈川県議会選挙に挑戦する“ごとう真左美”です。1985年に社会学部応用経済学科に入学、多摩キャンパスの2期生です。

法政女子校時代、広島への研修旅行で、被爆者の実相を聞き、二度と戦争はしてはいけない、もっと能動的に生きていきたいと思い、社会進歩と自分の生き方を重ね合わせる人生の選択をしました。「自由と進歩」「女性である前に人間であれ」、この法政大学の精神が、私の根底となっています。

田沼肇ゼミで学び、近現代史を学ぶサークルを作り、牧歌的な多摩キャンパスでのびのび過ごしました。

川崎区の定数は2議席へと減らされてしまい大激戦区です。しかし、神奈川県には共産党の議席がひとつもなくなってしまい、県民に冷たい、県民の声が届かない県政になっています。なんとしても県会へ行くために「自由と進歩」そしてチャレンジ精神全開で毎日がんばっています! ツイッターもやっていますので、ぜひご覧ください!

(ごとう真左美で検索をお願いします)

  • 法政大学OBの地方選立候補者(神奈川県関係)(2015年2月の「革新のひろば」号外から)

後藤真左美――ファイスブックで五十嵐仁さんを恩師と紹介しています

井坂しんや――神奈川県議候補(横須賀市、市議3期。定数5) 45歳。法学部卒

田所健太郎――相模原市市議候補(相模原市緑区、定数11) 25歳。社会学部卒

 

<惜別>   同じ時代に出会えたことに感謝します。

逝ってきます

この度、遥か山のかなたに旅立つことになりました。私が歩いて来た道を振り返ってみれば、いつも君がいました。道に迷ったり、仲間に迷惑をかけたりということもありましたが、君と共に歩いてきました。寛大な君の暖かい心遣いに支えられて、今日ここまで来ることができたと思います。

この先の旅は、ひとり単独行で参りますが、先に逝った仲間と合流できるのが楽しみです。

私もいろいろな道を通って来ましたが、自分の信条、信念は最終的には貫き通せた人生だと確信しています。悔いはありません。

お世話になりました。ありがとう。君と出会えてよかった。友情に感謝します。さようなら

2015年1月15日

旅立ちます  安藤 三四郎

〔娘さんから〕

突然この様なメールをお送りして申し訳ありません。

先週15日に父が永眠致しました。上記は生前、父が用意した皆様に向けてのお別れのご挨拶です。

遺言により親族のみで本日葬儀を執り行いました。

父の希望とは言え、皆様には大変お世話になったにも関わらず、この様な形でのご報告になってしまった無礼をどうかお許し下さい。

あまりに突然の事で、母も私もただ呆然とするばかりですが、これからは母娘ふたりで支え合って生きて行こうと思っております。

寒い日が続いております。皆様どうぞご自愛下さい。(1月20日 安藤 長女)

~~~~~~~~~~~~~~三四郎遺影1~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

○…思い出・送る言葉

「安藤さん」とか「安藤君」とか呼んだことはない。いつも「安藤」か『三四郎』の呼び捨てだった。1966年4月、法Ⅱの社Eで出会って以来、そんな間柄が49年になる。北海道から出てきた僕には東京の生まれ育ちの人間がまぶしかった。東京人の住まいを訪ねたのは彼の家が初めてだった。

卒業して数年後、彼の職場を訪ねたことがあった。ちょうど昼休みで、組合事務所の前のエレベーターホールに大勢の女性が輪をつくり、その真ん中で彼が山登りの道具の説明をしていた。

数年前、「心臓が悪いので迷惑かもしれないが俺もモンゴルに行きたい。連れていけ」との話があり、2度同行した。「いい旅だった。いい写真が撮れた」と喜んでくれた。

1月12日に母上が亡くなられた。「おふくろの前に死にたくない」と言っていたから安心したのかもしれない。「逝ってきます」を読んで、死を自覚した彼の心情が切なかったが、僕の方こそ君の友情に感謝したいという気持ちが湧きあがった。ご冥福を祈ります。

(クラスメイト)T・K

三四郎遺影2

【左の写真】ノーモアヒバクシャの集会の帰り道、有楽町のビアホールで一杯! 三四郎さんとは非暴力で国民的統一戦線をと話した思い出があります。

(提供:M・K

 

 

 

 

沖縄、辺野古基地新設阻止へ、できることを――抗議・連帯のハガキ、映画を観る…

昨年11月の沖縄知事選挙に少しでも応援をと会から3人を派遣していただいてから、もう3カ月。現地では激動が続いています。紙面をお借りしてレポートの続編としてアピールをお送りします。(K・O)

111  私は翁長知事へ連帯ハガキ、政府へは「撤回せよ」のハガキを連日のように投函

知事(法政大学1975年卒)が初登庁し間もなく3か月が過ぎようとしています。この間安倍政権は「予定どおり粛々と進めていく」と菅官房長官(法政大学1973年、法卒)が話し、海上保安庁(海猿)を増やして辺野古新基地建設阻止の闘いを邪魔しようとしています。

1月20日に映画「圧殺の海」の影山あさ子共同監督はカメラを奪おうとする保安官に馬乗りされるという事件がありました。辺野古の海にはジュゴンが生息しています。

▼海を動・生物たちから奪わない、辺野古は名護市民のもの、翁長知事に「県民の願い実現の先頭に立っている知事は私たちの誇りです」とほぼ毎日ハガキを送っています。

▼安倍政権には「新基地計画を撤回せよ」と書き52円切手を貼っています。(本当は1~2週間、辺野古に行きたい気持ち!)

2月15日に「圧殺の海」を観ました。監督、小森陽一、カヌー隊リーダーがトークショーで現状を語ってくれました。今せめぎあいが続いています。自分のできることをやっていきたいと思います。平山知子弁護士の夫、平山基生さんも辺野古に家を借りて闘っているとか。弁護士は「皆さん、とにかく行ってください」と訴えています。

⇒ 今出来ること、抗議ハガキや知事への激励エール葉書などを粛々とやっていきましょう。ポレポレ東中野で上映中の映画「圧殺の海-沖縄・辺野古」(森の映画社、109分)を観ましょう(3月13日まで)。

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沖縄で実現 ~最も新しい形の統一戦線のひな型か!?~

T・O

日本の現実に合った新しい形の統一戦線の理論と実践を模索していたボクにはぴったりの沖縄知事選挙であった。辺野古に基地を作らせない人なら誰とでも共闘する選挙。そんな訳で3日間全力で応援活動をし、帰りの飛行機の中で翁長勝利を知る最高のシチュエーションを経験できたのだ。

この歴史的瞬間、現場に居合わせる事ができ、この上ない喜びだ。平和は闘ってこそ勝ち取れる。

「11月1日菅原文太氏来る」と書いたポスターを選挙応援中見た。それは最期に命をけずって16000人集会に参加して、オナガ支持と政治家の役割を声をふりしぼって訴える映像を後から見ることになった。文太氏は「政治家の役割は国民を飢えさせないこと、絶対戦争をしないこと」と訴えていた。文太さんはすごい人です。最期に翁長勝利を見ることができたのは幸福だったと思う。合掌。――文太さん以外にもたくさんの「文太さん」が沖縄県外から応援に行っていた。

12月8・9・10日と研究会の用事で沖縄にいた。衆議院選挙最終日の10日、偶然1区赤嶺さんの演説会場県庁前広場にいた。応援弁士のメンバーがすごい。志位さん、社会大衆党参議院議員糸数さん、沖縄自民党を除名された人たちの会派代表、この日初登庁の翁長知事、城間那覇市長。みんな赤嶺さんを応援しながら沖縄4つの選挙区全部で非自民の候補者を当選させようと訴える。沖縄では国政選挙でも「オール沖縄」という統一戦線が出来ていた。そして見事4議席を取ってしまった。

沖縄だからできると言ってしまえば身も蓋もない。この中から何をつかむのか。沖縄県外は何を学ぶのか。

【投稿】 「川上徹さんとのお別れの会」に参列して

今年1月2日、川上徹氏が逝去されました(享年74歳)。

1964年再建全学連委員長、66年から72年まで民青中央常任委員を務め、新日和見主義批判で査問を受けた川上氏(40年生まれ、以下同じ)のことは多くの方が知っておられることでしょう。

1月24日、日本青年館国際ホールで開催された「川上徹さんとのお別れの会」は300名の友人や偲ぶ方々で満席でした。12名の「お別れの言葉」とご子息の「お礼の言葉」を受けて、参列者全員の献花で締めくくられました。

実行委員長の梓澤和幸弁護士(43年)から法政大学OBにと案内状が届き、Y・K、M・K、私が参列しました。私たちは2000年、法政大学学生運動の歴史編集委員会を立ち上げる際に川上氏と懇談させていただいたことがあります。

受付でいただいた同時代社の袋には「お礼の言葉」や「お別れの言葉」そして同時代社出版録などが同封されていました。略歴には「亀戸で生まれ。60年東大入学と共に日本共産党に入党。80年同時代社設立。90年日本共産党を離党」とあり、著書は『もう一度船を出せ』『査問』『アカ』『素描・1960年代』『戦後左翼たちの誕生と衰亡』とかいてありました。

(喪主)川上蓉子さんの「お礼の言葉」(抜粋)            777

60年大学生・青年運動のリーダーでしたが、10年余りで突然活動の場を失い、全ての道を断たれた40年余りの歳月、その後の生き方こそ川上徹の真骨頂であった。彼にはもう一冊書きとどめたいテーマがありました。

「45年の敗戦を幼児期で迎え、戦争の痛みのカケラを実感として受け止め、戦後の貧しさの中から明日への希望を求めて、60年安保を担った僕らの世代。しかし、時代の急速な変化がその世代を消した。左翼と呼ばれた様々な組織も今や消え去ろうとしている。それは左翼の側にも問題があったはずだ。僕らが見ようとしなかったもの、気がつかなかったもの、それを少しでも掬い取って、記録として残したい」

学生運動=全共闘というマスコミの喧伝に全学連の一員として闘った法政大学の学生運動を残そうと川上さんのお話を聞いたのが2000年でした。「まじめで大事なテーマだ。作る側の満足が大事だ」と励ましてくれました。

「お別れの会」出席者の多くは60年代世代。70年代世代の私にとって「一時代が終わった」のは理解できても、このままでは終われないと思っています。 (J・Y)

――――――――― <惜別> 尊敬できる大学同窓生を偲ぶ ――――――――

後藤健二氏(1967年9月22日~2015年1月31日)。宮城県仙台市で末っ子として生まれる。法政大学第二高等学校に進み、1991年に法政大学社会学部応用経済学科(社会政策科学科)を卒業。在学中にアメリカコロンビア大学語学留学1996年に映像通信会社インデペンデント・プレスを設立。兄が経営するアルバイトでは、英語が堪能であったため生徒からは「健二先生」と呼ばれ慕われる人気講師だった。自身はキリスト教信仰するようになり、取材の際には小さな聖書を持ち歩いていた。

2006年、紛争地域の子供を取材した『ダイヤモンドより平和がほしい』で第53回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。2011年東日本大震災では、被災地の石巻市気仙沼市日本ユニセフ協会の記録員を務めた。中東での取材中、アル=ヌスラ戦線に拘束されたものの、1日で解放された。2014年10月後半から11月前半にテロ組織「イスラム国」に拘束された末、2015年1月31日に殺害されたと見られている。

******************** 編集後記 ********************

▲残念な悲報、訃報でした。66年Ⅱ社入学の安藤三四郎さんが1月15日に亡くなったとの知らせを安藤さんと同期でⅡ社自委員長であったKさんから。▲安藤さんはⅡ部九条の会の会員として、体調が悪い中でも集会に共に参加され、「松田さんを支える会」や様々な集いにも参加されました。大きな体躯とは裏腹の物静かで穏やかな話しぶりは安藤さん独特の存在感を与えていました。心よりお悔やみを申し上げます。▲安藤さんができなくなったことを、私たちがきちんと継続していくことを誓いあいたいです。(Y・K)

 

沖縄知事選 現地報告

翁長氏と写真   2014年11月15日夜送信

「未来の自分から今の自分を誇れるような選択を」というアピールに大拍手と歓声

密集、鈴なりとはこういうことを言うのだろう。那覇市中心部の県庁前の広場と向かい側の広い空間はアッという間に人、人で埋まった。主催者発表で7,500人。午後6時30分からのオナガ陣営の集結集会は「打ち上げ」とは言わないと強調されていたが、明日の投票箱の蓋が閉まるまでがんばることを弁士が強調する。
右翼と思われる乗用車が軍歌や攻撃するセリフを流しながら、オナガ宣伝カーと群集の間の道路を何度も通過する。沖縄の人たちは、そんな車には手を出さず演説は続く。警察は規制しない。宣伝カー周辺には制服警官の姿はない。
統一候補を支える各政党代表や候補者10人以上の「2分スピーチ」も力が入り説得力があるが、左官業という青年と20代とおぼしき女性のアピールは、特に会場に響いた。

「未来の自分から今の自分を誇れるよう選択して下さい。基地をいったん作られたら後戻りできません。新基地はいらない。日本政府とアメリカ政府が口約束だけで危険な基地をなくさず、新基地をつくることに、沖縄はもう一度県民の意志を示さなければならないのです」「誰に投票したらいいか悩んでいる県民の皆さん、気持ちはわかります」「明日は投票して下さい」と、凛とした叫び。そして会場の共感の熱気。
(それを文字で伝えきれないもどかしさが、本当に悔しい。久しぶりに、暗闇の中でメモする指が震えるのを感じた。)

オナガ氏は、沖縄の心と世界的視野で政治家の責任を問いかけた

オナガ氏の選挙戦最後の演説は、短いながら大きなスケールの内容だ。「今回の選挙は、沖縄の自然、歴史を引き継ぎ、私たちの誇りをもって基地は要らないという大きな志を、アジアの中で発揮できるよう実現させるのが、現在の政治家の責任だ」「21世紀のこれからの子どもたちのために一生懸命がんばらなくてはならない。一緒にがんばりましょう」。
「ウチナンチュウの心」という言葉も出た。聴衆も拍手で応えた。居並ぶテレビカメラの列に向かって意識して問いかけたかはわからないが、彼の言葉と志を“政治家”を自負するすべての者たち、そして“本土(やまと)”の者たちはどう聞いたのか?
(特に取材・報道者は自問しなくてはならないと痛感した。ジャーナリストたる者、たろうとする者の矜持が、ここでも問われているのでは。夜のマスコミ各社のテレビ報道は何を伝えたのか、朝刊は何を書くのか、皆さんに情報を寄せていただきたくお願いしたい。)

基地建設容認に転じた現知事への評価を、タクシー運転手さんから聞く

夜の目がさめるような事象に比べたら、朝から夕方までの選挙支援活動の報告は大した問題ではないが、記録として必要なので記したい。
行動3日目も朝9時から打ち合わせをして地域を分担して法定ビラの「お届け」。ハンドマイクでのアピールも併用した。本日は3人プラス他団体からの1人の4人で数百軒を訪ねたが、集合住宅が多く、階段の登り降りで大変ではあった。傾向としては、一戸建ては反応が良く、民間アパートは留守か関心を示さない人が多かった。
移動に使うタクシーの運転手さんには必ず「選挙情勢は?」と聞いたが、現知事が基地建設へ態度変更したことを「約束破り、裏切りと感じている県民が多い」こと、高齢でありテレビで見る発言姿のおぼつかなさへの懸念があることを共通して語った。沖縄では「約束破り」すれば信頼失墜というモラルがかなり高いということを、彼らの話から理解した。
夜の集結集会へ向けて、市内数か所から「のぼり旗」を林立させながらそれぞれ数百人規模で県庁前まで歩道を移動したが、我々が出発した沖縄セルラースタジアムでは、「入ってもいいですか?」と、小学校前の子ども2人を連れた男性がいた。政策ビラ配布中にも、「私のような1人でも参加できる集合場所を教えて欲しい」と男性に声をかけられたが、県民の意識状況を示す事例ではないかと感じた。

【報告を終えるにあたって】短期間の中でもつかむことができた内容のうち、この報告では裏づけや精査の余裕がなかったため、記載できなかったことが多くある。多少大げさに言うと、価値観や人生観の変更を迫られる内容もあった。頭の中で整理できていないし、いつ整理できるかわからないこともある。でも、ひと言で言うと、現場主義が大切であり、百聞は一見にしかずという先達の言葉の正しさを確認させられた3日間でもあった。明日の日曜日、4日目はどうしようか? パソコンを閉じる前に、まだ悩んでいる。(山田幹夫)

戦争行くな!選挙に行こう!

戦争行くな! 選挙に行こう! 
安倍極右内閣は、断末魔的嘘と誤魔化し解散を強行しました。
安倍極右内閣は、集団的自衛権行使の閣議決定、原発再稼動、労働法制の改悪など暴走を続けていますが、結局、「アベノミクス」は富める者だけがますます富み更なる格差拡大をうみだすだけだということがはっきりして破綻し、国民の年金基金の大半を株式市場に投資したり、TPPを推進するという反動売国の道をさらに暴走しようとしています。
しかも、12月10日には秘密保護法が施行され言論表現の自由を政府の思うままコントロールしようとしています。
選挙論争ではアメリカ追随の安保法制には触れず、1票の格差はほとんどそのままに、憲法違反の選挙制度の下で偽多数派を掠め取ろうとしています。
加えて、「維新」をはじめとする「第三極」が安倍補完勢力として売国的右翼路線を加速させようとしています。
安倍暴走ストップ、政治を変えよう!
法政大学で共に学び学園民主化闘争を闘った私たちは、これらの勢力による九条をはじめとする平和憲法破壊の企てを許すことは出来ません!
69年間戦争をしなかった日本の誇りを継続し発展させるために、「若者は戦争に行くな! 選挙に行こう!」「意思を示そう、選挙に行こう!」を合い言葉として呼び掛けようではありませんか。
オール沖縄の勝利を日本全国に!
沖縄では“オナガ的統一戦線”による小選挙区候補を、各政党が支持して勝利する方法を確立しました。
沖縄に続き本土でも、安倍政権打倒! 憲法改悪反対! 脱原発! を推進する候補者を当選させるため、私たち法政の同窓は、それぞれの場で力を尽くすことを呼び掛けます!若者よ!戦争行くな!選挙に行こう!
意思を示そう、選挙に行こう!