「3批評・意見」カテゴリーアーカイブ

「もっと知りたい在日コリアンの今」に参加して。-私の中の朝鮮―

                              村田民雄
 10月20日の講演会のチラシ作成の依頼を受け、タイトルから内容に興味を持ち、講師の著書『裁判の中の在日コリアン』を読み、さらなる興味から講演会に参加させていただきました。法政OB九条の会主催ということなので、30名位の講演会を予想して出かけたのですが、その半数ほどのアットホームな参加者に少し拍子抜けでした。一方で40数年前法政で知り合った仲間が、今でも当時の思いを胸に護憲運動に関わっていることに感動したことも事実です。講演会後の飲み会も有意義でした。これまでの体験もまじえて感想をまとめてみました。

 ふた昔も前のことになります。馴染みのスナックSはHさんが経営する店でした。Hさんは在日コリアン二世、両親は日本に来て成功し二人姉妹とも大学を修了しています。日本に生まれ育ったので普通に日本語を話し、日本名を名乗っているので在日コリアンであることは一般の客はわかりません。特に国籍を隠しているわけでもなく、この店のウリは朝鮮人参の入った朝鮮酒でした。 あるときHさんも加わって「チョーセン談義」になりました。Hさんは、よっぱらったお客さん同士が「このチョーセン野郎」「チョーセン」とふざけ合う中、感情を抑えながら「笑顔」で接客してきたと言いました。また子どもの学校を選ぶとき、迷った末に地元の小学校を選んだが、4年生あたりから「こんなに日本人がいっぱいいるのになんでボクを朝鮮人に生んだんだ」と暴れるようになり、学校にいかなくなったといいます。
さらに、池上線千鳥町駅で電車まちをしていたときの古い記憶が自責の念とともによみがえりました。池上線は生活道路とほぼ並行して走っています。ホームにいた朝鮮初級学校の小学生に向かって日本の小学生が「チョーセン、チョウセン」とはやし立てて石を投げだし、そこに居合わせた数名の大人たちは誰も咎めることもなく見過ごしたのでした。金弁護士の言った「励ましでも謝罪でもなく」、何故「加害者にやめろ」と言えないのかという言葉が今更ながら心に突き刺さりました。
 山形の田舎町に暮らしていて、在日コリアンや部落差別は日常的にはほとんど体験することはありません。しかし、在日コリアンに対する潜伏している意識は言葉の端々に無意識にあらわれます。それは日韓の長い歴史のなかで刻まれた、日本人すべてにわたる差別意識です。かつてカメラのコマーシャルに「バカチョンカメラ」というコピーがありました。「誰でも簡単に使えるカメラ」という機能を「バカでもチョンでも」と表現したものですが、「チョン」は朝鮮人の蔑称として使われてきた言葉です。そのことを指摘されたメーカーはすぐに「ジャスピンカメラ」に改めました。おそらくコピーライターは差別する意識はなくその語源も知らなかったのでしょう。「バカチョン」は今でも生きていて、革新的と言われる人々の何気ない会話にも顔をだします。
 金弁護士の講演「在日コリアンの今」は、差別される側の人間として生きてきた半生を語る肉声でした。私たちが過去の事件として知っている寸又峡事件、小松川事件、指紋押捺拒否、サハリン残留韓国人問題などは、戦後日本の政治のなかで在日コリアンがおかれた過酷な差別状況と深く結びついています。そしてそれは日本人の意識をあぶり出すのです。歴史認識にしても、「日韓併合により日本は韓国のインフラ整備に資金を投入し戦後の発展の基礎をつくった」「従軍慰安婦はビジネスだった」「創氏改名は仕事を得るために自ら望んだものだった」といった言説が政治家の口からためらいもなく飛び出し、その口で「何度謝罪すれば気が済むのだ」という。そんなに韓国のためを思って併合をしたのなら、感謝されこそすれ、一度たりとも謝る必要などないのにという矛盾にも気がつかないのです。
 平和運動、護憲運動の中に侵略者側の視点があるのだろうかという指摘は改めて問い直す必要があると思います。児童文学の世界でも「戦争の悲惨さ」だけが強調され、アジアに対する加害者の視点に立った作品が少ないことが指摘されてきました。上野動物園の動物の慰霊碑はあっても、関東大震災で虐殺された朝鮮人の慰霊碑は一つもないという事実にはいまさらながら驚かされました。まさに視点の欠如を突かれた思いでした。
 金弁護士の目からウロコの話と、当日集まった九条の会の皆さんに刺激されました。未来を語るには少し歳をとりすぎ、大きなことはできませんが、これまで見過ごしてきた小さな理不尽の見直しから始めてみようと思います。

君とともに 俊彦さんヘ

                北嶋 博行

    I

二〇一一年三月一一日
東北地方をおそった大震災・大津波
そして 福島を フ・ク・シ・マ とした
原子力発電所の大事故
大震災があったから
福島の原発事故が起きたわけではない
福島原発があったから原発事故が起きたのだ
原発事故は ぼくらが見過ごしていた
原発マネーに汚れた日本の支配の仕組み
その一端を明らかにした
二〇一一年九月十九日 さよなら原発五万人集会
人であふれる明治公園 六万人以上の参加
ぼくらは法政大学卒業生九条の会の旗を掲げて
明治公園から渋谷までデモ行進をした
俊彦さん 君の姿は そこには なかった

二〇一一年一〇月三〇日
なくせ原発! 安心して往み続けられる福島を!
 一〇・二〇 大集会 インふくしま
測定器で放射能を計りながら ぼくらは参加した
法政大学のスクールカラー
オレンジ色の九条の会の旗の下に
各地で活躍する卒業生たちが集い交流ができた
悛彦さん 君の姿は そこには なかった

二〇一二年一月二八日
青く晴れた飯田橋駅頭で さよなら原発 を訴えて
ぼくらは 宣伝行動を行った
宣伝カーでの訴え
なくぜ原発の訴えの入ったティッシュの配布
テーブルを出しての対話・署名
俊彦さん 君の姿は そこには なかった

    Ⅱ

一九七〇年代
飯田橋の駅頭は
暴力一掃 大学民主化を
訴えることができる場所の一つだった
Ⅱ部の学生たちが登校する夕暮れ時に
学生自治会の宣伝活動が行われた
ガリ版印刷のビラ
ハンドマイクでの訴え
俊彦さん 君の姿は いつも そこにあった

「黒ヘル」集団 中核派などの暴力集団に
牛耳られた法政大学

六二年館の自治会室
何をなすべきか 学生自治会役員の討議
大きな声で早口に しやべる俊彦さん
君の姿は いつも そこにあった

暴力集団との闘いだけでなく
はじける青春の輝きもあった
法政大学Ⅱ部大学祭
平和と友好のキャンプ……
俊彦さん 君の姿は いつも
そこにあった

俊彦さん
君が法政大学から
日本福祉大学に学ぶ場を変えた時にも
ぼくらは 信じることができた
人間の尊厳を踏みにじる行為や仕組みに対して
平和と民主主義を求めて
君は敢然と闘い続けるだろう と

日本福祉大学での学生自治会活動
名古屋での日々の暮らし
保育園での運動 学童保育での活動……
俊彦さんは 真っ正直に信頼に応えてくれた
数年毎に開かれた松田さんを支える会の催し
赤旗まつりの法政大学のテント
俊彦さん 君の姿は いつも そこにあった

    Ⅲ

自転車の練習
よろける自転車
前から
後から 走りながら
俊彦さんの励ます声が聞こえた
目の前の崖 立ちふさがる岩
ここを登るのだと
俊彦さんの励ます声が聞こえた
当たり前のように ザックを背に登った
登り終えて聞けば
この夏の登はん最年少記録更新だと言う

家族キャンプ
ひとりひとりに役割が分担されて
一つの役割を果たす度に
俊彦さんの励ます声が聞こえた

穂貴さん 岳穂さん にしほさん ちほみさん
小学生一年生の夏に
広島の平和大会に
俊彦さんに連れられて二人で参加した
俊彦さん 香保里さん
子ども達四人 計六人での家族旅行
秋田の露天風呂 沖縄 高尾山…
スキーツアー
いつも 俊彦さんの 家族の 笑い声が聞こえた

    Ⅳ

二〇〇六年六月五日
俊彦さん 鬼籍に入る 享年五十歳

あれから 年月が経った
ぼくらは 少し年老いた
俊彦さんの子どもたちは大きく立派になった
穂貴さんは
富士山へ新入社員を連れて登るのを恒例としている
岳穂さんは
素敵な伴侶と新たに歩み出している
にしほさんは
働いている京都の言葉がきれいになった
ちほみさんは
中学生から救急救命士になった
そして
香保里さんは
俊彦さん 君をひたすら思い続けている

俊彦さん 君は もういない
もういないことは確かだが

ぼくらは 信じることができる
俊彦さんは ぼくらとともに
原発をなくそうの行動に参加することを
被災地への救援のために立ち上がることを

ぼくらは 信じることができる
俊彦さんは
香保里さんとともに
子どもたちの幸せを自分の幸せとしただろうことを
家族の幸せを 友だちの幸せを 人類の幸せを
自分の幸せとしただろうことを

俊彦さん
君の姿があるべき場所に 見えないことを
闘いの場で
生活の場で
ぼくらは 思い出す
そのようにして
君がいない時代をぼくらは生きる
俊彦さん
君とともに

(二〇一二年六月十目 俊彦さん墓参り 偲ぶ会にて)

官邸包囲デモについて  I.T

首相官邸包囲デモは、今週は日曜日に大規模行動ですね。
今週のNHK「クローズアップ現代」でもデモの参加者に焦点を当てて特集され、様子が伝えられていました。
私も初参加した6日に色々感じました。今更ながらではありますが感想を投稿します。

7 月6日に首相官邸前の「原発再稼働反対デモ」に初めて参加してまいりました。
フラっと1人で行動に参加する癖のある私にとって、とても居心地の良い抗議行動でした。

日比谷公園方面から霞ヶ関に向かって歩いて行ったところ、首都高霞ヶ関入り口に向かう坂下の歩道で、参加者たちのしっぽに辿り着きました。
時刻は6時半過ぎだったと思います。

歩道いっぱいの人々、ほとんどの人が特に仲間と来ているようには見えず、ただ個人が「原発再稼働に対する抗議」を表したいという意思で、参加しているようでした。
過去に私がデモや集会に1人参加した時にちょっぴり感じた「割り込んじゃった」という気後れやほのかな疎外感を今回は全く感じなかった!

人がいっぱいで10メートル進んだか進まないかの歩道の列で、シュプレヒコールはただ1つ「再稼働反対」の声だけ。
そして、それほど大きな声は出さないけれど、ずっ~と唱和し続ける人々。
ずっと降り続けた雨も8時の解散時刻には結構な大降りになっていたし、首相官邸は遥か彼方で辿り着けなかったけど、
人の波がずっとずっと続いているのだと思うととても気持ちが良かったです。
また途中参加も途中離脱も可能なゆるい隊列も素敵でした。”

今週は日曜日ですね、その後も行ける金曜日には参加です。
またこのデモの成り立ちの様子を伺えるツィッターのまとめページを発見したので参考までにアドレスを記します。
http://togetter.com/li/332313

茨城の地より-嶋田秀雄

法政二部九条の会の皆さんへ

さようなら
「さようなら」ほど空しく
悲しい言葉は見当たらない
しかし さようならの後に
「原発」の二文字がつくとどうなったのか
「さようなら原発」
この思いを一つにして
日本中から、そして日本中で
福島の悲劇を繰り返してはならない
日本を
そして世界中を破滅へと導く
原発を許してはならないの声と
熱い思いが
共鳴し轟き渡った
ここ東京・代々木公園

10kgの書籍を担っで参加したが
暑さで足をとられ
うづくまった私に
冷たい氷を
そして熱中症対策の飲み水を
次から次へと差し出してくれる参加者
中には
手をしっかりと握りしめてくれる参加者も

物心ついた時から五十年
こうした集会やデモに参加してきた僕にも
こうした記憶は無い
道草を食ったおかげで仲間には
合流できなかったが
十七万人の思想信条を超えた
限りの無い連帯を噛みしめた
さようなら原発
さようなら核兵器
私たちはこの日を忘れない
忘れはしない

7月1日東京九条の会大交流に参加しよう!

東京九条の会の交流会で「次世代の継承分科会」を法政9条の会で担当することになりました。
 次世代の承継について、どのような分科会を持ったらよいか話し合っています。担当者の一人中村が提案文を出したので、掲載します。是非皆さんで参加し、分科会を盛り上げてください。

 心に懸かることがある  中村雅子
1、 今年3月10日「2012年国際女性デー埼玉集会」が開かれる予定だった。講師は詩人のアーサー・ビナードさん。講演の演題は「さいた さいた セシウムがさいた~3・11後の安心をどうつくりだすか~」。しかし、この演題に対する抗議が相次ぎ、脅迫めいたものもあったため参加者や関係者の安全を考えて集会が中止になったという。
一つの集会が、抗議や脅迫によって中止されたということは小さなエピソードに過ぎないだろうか。
2、 「在日特権を許さない市民の会」(略称:在特会))という会がある。2007年結成。「在日韓国・朝鮮人が握る特権(在日特権)は、余りにも大きすぎるとし、日本からなくすことを目的」(Wikipediaより)に活動している。具体的には、京都の朝鮮人学校が広い校庭をもたないために、近くの公園を使って運動会をするのを妨害し、ロート製薬のCMに韓国人タレントを起用したと攻撃するなどの「活動」をしている。最近、若い人たちの参加が増えているという。
在日韓国・朝鮮人の「特権が大きすぎる」というけれど、彼らには在日米軍の「特権」は見えないのだろうか。
3、 福島から避難した人たちが、どこから来たのと聞かれて「福島」と答えると、相手の態度が変わるという。居づらくなって福島へ帰らざるを得ないこどもたちもいる。
加害者の東電ではなく、被災した福島県民が差別やいじめの対象にされている。変ではないか。
4、 最近、タレントの母親が生活保護を受けているというので、マスコミが大騒ぎをした。
生活保護は憲法25条で保障されている生存権に基づく制度なのだ。暮らしが成り立たなくなったら、保護を受ける権利が国民にはあり、国は保護を受けさせる社会的使命があると憲法には書いてある。
不正受給は担当部署が処理すればよい。マスコミが問題にすべきは、生活保護受給者が210万人にもなり、一方、生活保護を受けられなくて餓死する人まで出ているこの国の深刻さと、格差社会を生み出したこの国の政策である。

先にあげた4つの事例は、今この国にはびこっている暴力とは言えないか。
直接の殴る、蹴るではないが、言葉による攻撃=暴力によって、ものが言えなくなっている。弱い立場の者が社会の片隅に追いやられ、理不尽がまかり通っている。これを見過ごしていいのだろうか。

「在特会」のことを知った時、私は身震いするほどの恐怖を覚えた。
私には、思い出す詩がある。
「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」
マルティン・ニーメラー
彼らが共産主義者を攻撃したとき、私は声を上げなかった。私は共産主義者ではなかったから。
社会主義者が牢獄に入れられたとき、私は声を上げなかった。私は社会主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声を上げなかった。私は労働組合員ではなかったから。
彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声を上げなかった。私はユダヤ人などではなかったから。
そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声を上げるものは誰一人残っていなかった。

「在特会」の「活動」は、ナチ親衛隊のユダヤ人狩りを想起させる。ユダヤ人狩りの果てがあの戦争だった。
暴力に無関心であってはならない。小さな理不尽を見過ごしてはいけない。差別を放置してはいけないことを歴史は教えている。

極論かもしれないが、福島第一原子力発電所の事故は、私たちが見て見ぬふりをしてきた結果起こった事故とも言えないだろうか。(もちろん、直接の事故発生の原因、責任は徹底的に追及・解明されなければならない。)
福島第一原発の事故に私は強い衝撃を受けた。私たちはあわてた。
戦後の民主主義の世の中で、原発は着々と作られ、私たちはそこから供給される電気を使って便利な生活を享受してきた。原発の危険な兆候はすでにあちこちにあった。そこで働く労働者の被曝問題も深刻だったはずだ。でも、私たちは原発を受け入れてきた。
原発が危険なことは知っていたはずなのに、原発反対と言えたはずなのに、なぜ、54基もの原発を作らせてしまったのだろう。福島原発が大事故を引き起こすに至ってしまったのだろう。

戦争は最大の暴力だ。大量の人命を奪い生活を破壊する。
片や、原発事故は福島の人々の生活を根底から奪い、故郷から追い出し、あらゆる命をじわじわと長い時間をかけて侵していく。それは形を変えた戦争とは言えないだろうか。だから、原発は軍事機密のように秘密だらけになる。原発の再稼働は、秘密保全法制定と抱き合わせで進められようとしている。
何故、戦争を止められなかったのかという問題と、何故、原発建設を止められなかったかという問題は、根っこでつながっている気がする。

わが法政9条の会は、「暴力で物事を解決させない」「日本国憲法第9条の精神を世界に広げる」と結成趣旨にうたっている。
私たちは、学生時代、暴力学生集団によって学ぶ自由を奪われた。次の世代にはそんな思いはさせたくないという強い思いを持っている。
それは、戦争体験者が、あんな酷い目にこどもたちを遭わせたくない、だから二度と戦争を起こさせてはいけないという思いと通底する。
何ができるだろう。暴力に立ち向かう勇気はどうやったら生まれるだろうか。

学生時代の体験を語ろう。
暴力集団が学内を支配し、授業を受けられなかった悔しさを。
暴力集団に襲われ、瀕死の重傷を負った松田さんや学友たちのことを。
松田さんと共に歩んだ仲間たちの40年を。

暴力集団の暴力の果てに大学管理法が制定され、それは40数年後の今も大学の自治・学問の自由を奪っている。私たちは、暴力をだれが喜ぶか見極めなければならない。
最大の暴力である戦争で必ず儲かるものがいることも、イラクやアフガンの侵略戦争が教えている。

日 時 2012年7月1日(日曜日)午前10時開場
場 所 正則高等学校 港区芝公園3-1-36
分科会 次世代への継承(担当法大OB)
主 催 九条の会東京連絡会

4月30日はベトナム解放記念日

佐賀の山下です。

1975年4月30日、サイゴン陥落と南ベトナム崩壊。

南部解放記念日とも呼はれ、サイゴン陥落を指します。

当時、全世界で、翌日のメーデーで喚起の声で盛り上がりました。

わたしは、青春真っ盛り。

ベトナム反戦、沖縄返還のたたかい、暴力学生のテロ反対、大学民主化の運動に参加し、学内で授業が受けられず、学外ゼミなどで、経済、社会問題での思想・哲学、方法論、史観などを、いまわ亡き恩師から学びました。

学んだ学部は教授も変わり、社会政策ハウツー的に変質したようです。

わたしは、69年入学、71年に退学しました。

松田さんが全共闘一派に襲われた1年後の退学。
ベトナム解放時は佐賀県鹿島市で共産党専従をしていました。市内のメーデーでの歓声とも驚きの声は、いまでも覚えています。

ベトナム解放から37年、米国は政治・経済面で相対的力を低下しまがらも、いまでも、軍事支配体制は変わらず、従属国に経済・軍事負担を押し付けています。

いま、野田首相が米国参府し、臣下の礼をしています。

この九条の会が、日本国民の未来を切り開く世論喚起の一翼になってほしいと思います。

松田さんを支え、そして、このメーリング・ポスト、HPを支える皆さんに感謝し、わたしも佐賀で、政治刷新の運動を続けていきたいと思います。

武雄市議会「海兵隊は殴り込み部隊」不当懲罰

佐賀の山下です。
佐賀県武雄市議会で共産市議が「平和問題」での一般質問のなかで、「海兵隊は殴り込み部隊」と指摘発言で懲罰処分(1日出席停止)の不当決議をしました。

この問題で緊急演説会が開かれ、参加しました。

武雄市議会「海兵隊は殴り込み部隊」懲罰は、多数派の沖縄問題での無知さを明らかにしました。江原一雄市議の平和問題での市長質問は、市民に「沖縄の米軍基地問題」で沖縄県民と連帯する大切さを教え、日本の米軍基地が「平和抑止力」でもないことも知らせることにもなりました。

わたしは、懲罰決議が樋渡市長の「震災がれき」決議同様の市長「やらせ」と思います。市長は新採職員あいさつで、「良い親分子分」発言もしています。市長のコンプライアンス、ガバナンスに問題があると思います。古川知事、大阪の橋本市長同様の深刻です。「市長辞めろ!」の声が大きくなることを期待しています。

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8日夜、開かれた武雄市共産市議不当懲罰での緊急演説会に110人が集まりました。

赤嶺政賢衆院議員は沖縄県の米海兵隊の実態と県民被害を国会での具体的追及、民主政権の基地問題政策での裏切りなど報告、市議会懲罰が沖縄県民の想い、「米軍は沖縄県民を守らない」という県民意識を裏切る行為と批判しました。

赤嶺衆院議員は、最初に「海兵隊は殴り込み部隊」発言で、武雄市議会で懲罰処分されてことを聞き、「まさか・・・が第一感情」と、「こんな乱暴な市議会があるのか」と印象を語りました。

海兵隊の役割については、「海兵隊はよく、『殴り込み部隊』いわれるように、真っ先に紛争地帯に駆け付ける任務を担っている」(当時、飯島勲・小泉首相秘書官)、「在日米軍は、沖縄、岩国の海兵隊、横須賀の空母打撃群など海外遠征専門の殴り込み部隊」(2006年1月24日、共産党・志位委員長質問)を紹介。今回の懲罰が、海兵隊への無知さを明らかにしていると指摘しました。

さらに、海兵隊「マリーン」について、「人殺し」と理解する県民が多く、沖縄県民は、犯罪を犯す「クレージー・マリーン」の感情を持っていると述べました。

また、沖縄の米軍の抑止力についても、「沖縄に駐留する米海兵隊は日本防衛の任務をわりあてられていない」「アメリカは日本防衛だけに専念するいかなる部隊も日本に維持していない」(83年当時、ワインバーガー米国防長官)はじめ、いくつかの根拠をあげ、抑止力としての実態がないことを提示しました。

今回の懲罰が、沖縄県民に懲罰を受けた思いがすること、これに屈したら県民は悲しくなると参加者に訴え、激励しました。

江原一雄市議は、懲罰問題で1万7千世帯に4種類2万枚の不当懲罰を知らせる宣伝ビラを配布、多くの市民と話し合いしていること、そのなかで激励が数多く寄せられていると報告。

懲罰が、言論の府の「自殺行為」であること。一般質問当日(15日)の樋渡啓祐市長の「議員の資格ゼロ」と掲載したブログhttp://bit.ly/Hp4Akx を紹介。樋渡市長が「市政担当する資格ゼロ」と批判して、平和を語り継ぐ大切さと「憲法を学び、語り、市政に生かしたい」を決意を披歴しました。

演説会には、懲罰決議に他会派で反対した谷口摂久、宮本栄八の両市議が出席。それぞれが、決議の不当性を訴えるました。

谷口市議は、自分が自民党員であるが、江原市議が地域に根ざした活動をしていること、市民に対する懲罰で、党派を超えて参加したと発言。また、宮本市議も、しつかりした政治信念を持つ、武雄市に必要な人と述べ、ふたりとも、懲罰理由で「海兵隊殴り込み」発言を「反省の態度がない」と根拠すりかえを批判、不当性を語りました。

懲罰問題で、先月30日、沖縄県平和委員会が、牟田勝浩市議会議長に「懲罰糾弾」の抗議文が寄せられています。

ドイツのテレビ番組を観て

木村さん紹介のドイツZDFテレビの「フクシマのうそ」という番組を見ました。
あらためて東電の罪深さ・犯罪性と津波・地震の恐ろしさを感じました。大海原を白い波をあげて走る津波。陸に上がってからのどす黒い勢いには息を呑みました。そして福島第一原発の惨状。
30分という限られた時間ですから様々な制約があることは仕方ありませんが、幾つか感じたことを書きます。一つの感想として聞き流して下さればと思う次第です。 続きを読む ドイツのテレビ番組を観て

何故?

遅くなりましたが、木村さんの「何故?」と、井原 誠さんと安藤三 四 郎さんの投稿を掲載します。これは3月12日の投稿です。

 

皆様 昨日は井の頭公園での集会お世話様でした。また、各地で脱原発に向けた集会へのご参加ありがとうございました。

井の頭ではいわゆる共産党系の実行委員会が主催したものでした。福島では、さよなら原発系(原水禁系かな?)の集会がおこなわれ大江健三郎さんが挨拶され、1万6千名が参加し、加藤登喜子(あまり、お上手じゃないけどね)さんが唄を歌ったようです。東京ではやはり旧「新左翼」系(原水禁・社民党系かな)の脱原発首都圏連絡会が主催で日比谷公園で4万5千人を超える人々の集会だったようです。

何故?井の頭のボクらは日比谷公園に参加できなかったのでしょうか?
何故、一点での共闘を積み上げていくことが出来ないのでしょうか?
どなたか教えてくれませんか?
結局、分裂したのは井の頭の方じゃないのでしょうか?
木村誠 続きを読む 何故?

震災一年目に

法政同窓のみなさん、おはようございます。
今日3月11日は、東日本大震災から一年目の日です。今日の『しんぶん赤旗』一面に日本共産党志位委員長名の声明が掲載されていますが、声明にあるとおり、被災地復興は遅々として進まず、東京電力福島第一原子力発電所の原発事故からの復旧もまったく進んでいません。それどころか民主党野田内閣は、財界の忠実なしもべとして、被災地の人々に寄り添うことなく、被災地復興を儲けの機会・対象として上から目線での計画を進めようとしています。
さらに原発再稼働に異常な執念を燃やし、全面撤退を求める国民世論に真っ向から挑戦しています。こんなことを許してはいけません。
今日は、全国で震災で亡くなった方の鎮魂と被災地復興、なくせ原発の国民世論を広げる行動が取り組まれます。木村さんのメールやHPにあるように法政同窓生九条の会としても幟を掲げて井の頭公園の集会に参加します。安藤さんや北嶋さんのメールにあるように、それぞれの地域の集会に参加される方も多く、井の頭の集会に法政同窓がどれほど参加されるのかは分かりませんが我が家では、84歳の母を含め長女、長男家族、総勢6人が参加します。ぜひ多くの仲間とお会いできればと思っています。
同窓生九条の会は、震災発生直後から、岩手の鈴木さんの呼びかけに応えガスタービン発電機を贈り、ボランティア参加も三次にわたって9人が参加しました。中には山田さんのようにすべてに参加した人もいます。この取り組みは、「松田さんを支える会」の活動とともに、あの時代を共に生きた私たちだから出来ることであり、大きな誇りにしていいことだと思います。
柄谷行人が、アジっていたように原発事故の現実が目の前にある以上、私たちはこれに向き合わなければならず、放置することも忘れることもできません。
さよなら原発をめざし共に闘いましょう。
加藤 豊