文芸評論家の柄谷行人(からたに こうじん)氏は、この間反原発のデモに参加し、朝日新聞に取り上げられ、ツイッターなどでも彼の行動が伝えられているようです。
柄谷氏は吉本隆明を師と仰ぐどちらかと言えば「行動しない人」でした。
ここでのアジは、2011年9月11日に新宿で行われた反原発集会・新宿アルタ前でのもです。
ぜひご一読ください。
《この4月から反原発のデモに参加しています。このアルタ前でも6・11デモにも参加しました。
私がデモに行くようになってからいろんな質問を受けます。しかもたいがい否定的な質問です。
そのひとつは、「デモで何が変わるのか?デモで社会を変えられるのか?」というものです。私はこう応えます。もちろんデモで社会を変えることができる。確実に変えられます。なぜなら、デモをすることで、デモをする社会をつくれるからです。」
「考えて欲しい。今年の3月以前に、日本には沖縄を除いてデモはほとんどなかった。それがいま日本全国今日も多分100ヵ所以上でデモが行なわれています。その意味で、日本の社会はすこしは変わった。これは明らかです。
例えば、福島原発の事故のようなことがドイツやイタリアで起こればどうなるか、あるいは韓国で起こればどうなるか、巨大なデモが国中に起こるでしょう。しかしそれに較べれば、日本のデモは異様なほどに小さい。しかしそれでもデモが起こったことは凄い、救いであると私は思います。
デモは主権者である国民にとっての権利です。デモができないなら、国民は主権者ではない。例えば韓国では20年前までデモは出来なかった。軍事政権があったったからです。
しかし、その軍事政権を倒して国民主権を実現した。デモによって倒したのです。そのような人たちがデモを手放すはずがありません。
では、日本ではなぜデモが少ないのか?なぜそれはヘンなことだと思われているのか? それは国民主権を自分の力で、闘争によって獲得したからではないからです。日本人は戦後、国民主権を得ました。しかしそれは敗戦によるものであり、事実上占領軍によるものです。つまり自分で得たのではなく、与えられたものです。ではこれを自分自身のものにするためにはどうすればいいか?
それはデモをすることです。
私が受けるもうひとつの質問は、「デモ以外にも手段があるのではないか?」というものです。たしかにデモ以外にも手段があります。そもそも選挙があります。その他さまざまな手段があります。しかし、デモが根本的です。デモがある限りその他の方法も有効になりますが、デモがなければそれらは機能しません。いままでと同じことになります。
さらに私が受ける質問は、「このままデモは下火になっていくのではないか?」というものです。戦後日本には幾度も全国的な規模のデモがありました。しかしそれは長続きしなかった。今回のデモもそうなるのではないか、というわけです。たしかにその恐れはあります。マスメディアではすでに、「福島の事故は片付いた」、「ただちに経済復興に取り組むべきだ」というような意見が強まっています。ところがそんなことはない。福島ではなにも片付いてはいないのです。しかし当局やメディアは片付いたかのように言っている。最初からそうです。彼らは最初から事実を隠し、たいしたことはなかったかのように装ってきたのです。ある意味でそれは成功しています。多くの人たちがそれを信じている。信じたいからです。そしたら、今後に反原発のデモは下火になっていくことは避けられない、というふうに見えます。
しかし違います。福島原発事故は片付いていない、今後もすぐには片付かない、むしろ今後に被爆者の病状がはっきりと出てきます。また福島の住民は永遠に郷里を離れることになります。つまり、われわれが忘れようとしても、またじっさいに忘れても、原発の方は執拗に残る。それはいつまでも続きます。原発が恐ろしいのはこのことです。それでも人々はおとなしく政府や企業のいうことを聞いているでしょうか。そうであれば、日本人は物理的に終わりです。だから私はこう信じています。第一に反原発運動は長く続くということです。
第二に、それは原発にとどまらず日本の社会を根本的に変えるちからとなるだろうということです。
みなさん!粘り強く闘いましょう!
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7月1日東京九条の会大交流に参加しよう!
東京九条の会の交流会で「次世代の継承分科会」を法政9条の会で担当することになりました。
次世代の承継について、どのような分科会を持ったらよいか話し合っています。担当者の一人中村が提案文を出したので、掲載します。是非皆さんで参加し、分科会を盛り上げてください。
心に懸かることがある 中村雅子
1、 今年3月10日「2012年国際女性デー埼玉集会」が開かれる予定だった。講師は詩人のアーサー・ビナードさん。講演の演題は「さいた さいた セシウムがさいた~3・11後の安心をどうつくりだすか~」。しかし、この演題に対する抗議が相次ぎ、脅迫めいたものもあったため参加者や関係者の安全を考えて集会が中止になったという。
一つの集会が、抗議や脅迫によって中止されたということは小さなエピソードに過ぎないだろうか。
2、 「在日特権を許さない市民の会」(略称:在特会))という会がある。2007年結成。「在日韓国・朝鮮人が握る特権(在日特権)は、余りにも大きすぎるとし、日本からなくすことを目的」(Wikipediaより)に活動している。具体的には、京都の朝鮮人学校が広い校庭をもたないために、近くの公園を使って運動会をするのを妨害し、ロート製薬のCMに韓国人タレントを起用したと攻撃するなどの「活動」をしている。最近、若い人たちの参加が増えているという。
在日韓国・朝鮮人の「特権が大きすぎる」というけれど、彼らには在日米軍の「特権」は見えないのだろうか。
3、 福島から避難した人たちが、どこから来たのと聞かれて「福島」と答えると、相手の態度が変わるという。居づらくなって福島へ帰らざるを得ないこどもたちもいる。
加害者の東電ではなく、被災した福島県民が差別やいじめの対象にされている。変ではないか。
4、 最近、タレントの母親が生活保護を受けているというので、マスコミが大騒ぎをした。
生活保護は憲法25条で保障されている生存権に基づく制度なのだ。暮らしが成り立たなくなったら、保護を受ける権利が国民にはあり、国は保護を受けさせる社会的使命があると憲法には書いてある。
不正受給は担当部署が処理すればよい。マスコミが問題にすべきは、生活保護受給者が210万人にもなり、一方、生活保護を受けられなくて餓死する人まで出ているこの国の深刻さと、格差社会を生み出したこの国の政策である。
先にあげた4つの事例は、今この国にはびこっている暴力とは言えないか。
直接の殴る、蹴るではないが、言葉による攻撃=暴力によって、ものが言えなくなっている。弱い立場の者が社会の片隅に追いやられ、理不尽がまかり通っている。これを見過ごしていいのだろうか。
「在特会」のことを知った時、私は身震いするほどの恐怖を覚えた。
私には、思い出す詩がある。
「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」
マルティン・ニーメラー
彼らが共産主義者を攻撃したとき、私は声を上げなかった。私は共産主義者ではなかったから。
社会主義者が牢獄に入れられたとき、私は声を上げなかった。私は社会主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声を上げなかった。私は労働組合員ではなかったから。
彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声を上げなかった。私はユダヤ人などではなかったから。
そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声を上げるものは誰一人残っていなかった。
「在特会」の「活動」は、ナチ親衛隊のユダヤ人狩りを想起させる。ユダヤ人狩りの果てがあの戦争だった。
暴力に無関心であってはならない。小さな理不尽を見過ごしてはいけない。差別を放置してはいけないことを歴史は教えている。
極論かもしれないが、福島第一原子力発電所の事故は、私たちが見て見ぬふりをしてきた結果起こった事故とも言えないだろうか。(もちろん、直接の事故発生の原因、責任は徹底的に追及・解明されなければならない。)
福島第一原発の事故に私は強い衝撃を受けた。私たちはあわてた。
戦後の民主主義の世の中で、原発は着々と作られ、私たちはそこから供給される電気を使って便利な生活を享受してきた。原発の危険な兆候はすでにあちこちにあった。そこで働く労働者の被曝問題も深刻だったはずだ。でも、私たちは原発を受け入れてきた。
原発が危険なことは知っていたはずなのに、原発反対と言えたはずなのに、なぜ、54基もの原発を作らせてしまったのだろう。福島原発が大事故を引き起こすに至ってしまったのだろう。
戦争は最大の暴力だ。大量の人命を奪い生活を破壊する。
片や、原発事故は福島の人々の生活を根底から奪い、故郷から追い出し、あらゆる命をじわじわと長い時間をかけて侵していく。それは形を変えた戦争とは言えないだろうか。だから、原発は軍事機密のように秘密だらけになる。原発の再稼働は、秘密保全法制定と抱き合わせで進められようとしている。
何故、戦争を止められなかったのかという問題と、何故、原発建設を止められなかったかという問題は、根っこでつながっている気がする。
わが法政9条の会は、「暴力で物事を解決させない」「日本国憲法第9条の精神を世界に広げる」と結成趣旨にうたっている。
私たちは、学生時代、暴力学生集団によって学ぶ自由を奪われた。次の世代にはそんな思いはさせたくないという強い思いを持っている。
それは、戦争体験者が、あんな酷い目にこどもたちを遭わせたくない、だから二度と戦争を起こさせてはいけないという思いと通底する。
何ができるだろう。暴力に立ち向かう勇気はどうやったら生まれるだろうか。
学生時代の体験を語ろう。
暴力集団が学内を支配し、授業を受けられなかった悔しさを。
暴力集団に襲われ、瀕死の重傷を負った松田さんや学友たちのことを。
松田さんと共に歩んだ仲間たちの40年を。
暴力集団の暴力の果てに大学管理法が制定され、それは40数年後の今も大学の自治・学問の自由を奪っている。私たちは、暴力をだれが喜ぶか見極めなければならない。
最大の暴力である戦争で必ず儲かるものがいることも、イラクやアフガンの侵略戦争が教えている。
日 時 2012年7月1日(日曜日)午前10時開場
場 所 正則高等学校 港区芝公園3-1-36
分科会 次世代への継承(担当法大OB)
主 催 九条の会東京連絡会
7・16は、法政同窓で100名のデモ隊を!
皆さま あいにくの雨の土曜日となりましたが、変わらずにお過ごしのことと存じます。僕は、こんな天気の時は、頭が重くフリーズ状態です。脳が再稼働できるものならしたいものですが、頭と原発は訳が違います。
6月8日の野田首相の会見を見て、一片の道理もない大飯原発再稼働表明に、「かかるときかかる首相をいただきてかかる目に遭ふ日本の不幸」という俳人、長谷川櫂さんの短歌をあらためて思い起こしました。ここで言われていた「かかる首相」は菅でしたが、原発再稼働と消費税増税に異様な執念を持つ、さらに異常な財界とアメリカのポチ、野田に対してガツンと一発喰らわしたい思いを抑えることが出来ません。いまだ16万人の人々が避難を余儀なくされ、日々の不安におののいている事実を認識できないような人物は、人間としてクズです。
総選挙を待つなどと悠長なことではなく、圧倒的国民世論の前に、野田民主党政権を徹底的に追いつめることが必要です。マクベスが、バーナムの森に囲まれて恐怖し敗北を予感したたように、「再稼働を許すな」の国民の声と行動で全国を埋め尽くし野田民主党政権を畏怖させましょう。
7月16日に代々木公園で開かれる10万人集会は、その大きな一つです。僕らが望んでいた「1000万人アクション」と全労連系の「全国連絡会」が初めて共同して開催する集会です。
昨年9・11に明治公園を6万人で埋め尽くしたように、10万人集会は、10万人を越える参加で、国民の「原発いらない」の意志を示そうではありませんか。そのために、法政九条の会世話人会は、ハンドマイクを購入し、やる気いっぱいです。歌集も準備します。自家製エレキを持つ「鳴り物男」のカモさんの参加確認も取れました。当日は、出来れば家族連れで楽しく、賑やかにデモ行進を成功させようではありませんか。
100名目指してがんばろう
いまさら「動員目標」もないだろうとは思うのですが、当時の学友が100名集まり、「脱原発」を唱和することは、過去につながり未来を開く行動だと思います。
地域や職場から参加される皆さんも、事情が許せばぜひ、法政のデモに参加をお願いします。オレンジとブルーのスクールカラーの幟旗のもとデモしましょう。
代々木公園、渋谷に抜けるケヤキ並木12時から集合です。
7月16 加藤 豊
大飯原発再稼動反対!緊急ネット署名
以下をクリックしていただき、緊急の署名をお願いします。 木村誠
◆緊急オンライン署名
大飯原発3・4号の再稼働を断念するよう求めます
-悲惨な福島原発事故を直視してください
-事故の責任もとれないのに「私の責任で」と言わないでください
-安全性はすべて置き去りなのですか
http://e-shift.org/?p=1994
是非、署名をお願いします。
原発ゼロの日 さよなら原発5.5(ゴーゴ-)集会
1970年以来42年ぶりの今年、5月5日に日本の原発54基がすべて停止しました。
Ⅱ部九条の会は「法政大学卒業生九条の会」の旗を持って「さよなら原発集会」に13名が参加し「再稼働反対!原発いらない」とデモ行進をしました。
5.500人が集まった集会で主催者からは「社会を変えないと本当の意味での原発ゼロはやってこない。今日はスタート地点だ」(内橋克人)と呼びかけがあり、「原発さよなら」「子どもを守ろう」と唱和しました。
「原発が全て止まる歴史的な瞬間。子どもに地球、日本を残す責任がある」(鎌田慧)「安全神話は崩れた。電力は足りなくない。住民の犠牲の上に経済が優先されることは、もう許されない。日韓の市民が一緒になって、原発をなくそう。ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・フクシマ」と気迫に満ちた挨拶(韓国・環境財団崔洌)がありました。
会場入り口では革マル派が宣伝行動をしていました。また、日大全共闘、明大全共闘、芝工大全学闘などの旗も見えました。九条の会の旗は他に一本とのことでしたが市民団体の旗は無数にありました。
会場周辺には右翼が宣伝カーなどを出し、卑劣な罵声をデモ隊の浴びせていましたが、挑発に乗ることなくデモ行進を続けました。
法政の仲間はマイクがなかったものの肉声で独自のシュプレ。女性陣が活躍しました。次回7月16日はⅠ部九条の会と合同で参加します。マイクを買って、50名規模で参加しましょう。再稼働を許さず、原発を永遠に止めるために!
さよなら原発1000万人アクションのサイトはこちら、5.5集会の報告です。
岩手からー鈴木哲夫さんからの報告
昨夜、山田さんから「被災地情報が届いていないよ」と連絡を頂きました。関東などのマスコミの状況がよく分からないので、法政9条の会の書き込みやメッセージで、皆さんが原発問題に力を入れていると考え、被災地情報は遠慮していました。山田さんが「それではイカン!地元から発信しないとイカン!」と檄を下さいましたので、投稿します。
とは言っても、被災地はこの間、厳冬期でボランティア活動も厳しくて、多くの事は出来ませんでした。ご承知のように、瓦礫は一か所に集められましたが、地元の焼却炉では能力に限界があり、全国にお願いしても反対運動が起きて頓挫し、遅々として進まない状況です。それでも4月13日からは、労組の若者20人を引き連れて、陸前高田でボランティア活動を再開します。5月の連休には、全国から知り合いが何人か岩手入りするので、ボラの斡旋をします。法政9条の会のボランティアも希望があれば、セットします。6月に、落語家・三遊亭享楽という真打ちを県立高田病院に招いて、寄席を企画しています。その頃がいいかなとも考えます。
被災地は、仮設住宅から住居再建に向けて高台移転や防災地域作りが着手されています。太陽光発電など中規模事業も進出の計画があります。三陸縦貫高速道路とか、大河口水門建設とか、15メートル以上の防潮堤建設とか、セメント会社・ゼネコン・土建会社・国土交通省官僚が泣いて喜ぶような事業も目白押しです。
一方で、すっかり知り合いになった戸羽陸前高田市長は「被災地復興が、公共事業や消費税やTPPの口実にされていることに怒りを覚える」と怒っています。現地の住民が望んでいるのは「安全・安心の町作り」と、漁業や地元産業を基礎とした雇用の再建です。
被災者は今、仮設住宅から2年後にどこに終の住処を確保するか思いあぐねています。そのための資金として、300万円の義捐金は浪費することが出来ず、実に慎ましやかな生活をしています。着るものは支援物資で済ませ、食料品も質素なもので我慢しています。外食なんて、近所の仮設ラーメン屋とか、弁当屋です。生活消耗品も支援物資が貢献しています。山田さんから「今の支援物資の要望は?」と聞かれましたのでお知らせいたします。これまでもお願いしてきた「生活消耗品・保存可能な食料品」です。衣料品はすでにあふれています。
取り急ぎ、思いつくままに書き込みました。お問い合わせその他、ご連絡を歓迎いたします。今朝も吹雪でまだ寒く、薪ストーブの前から、岩手の鈴木でした。
岩手県は先週(連休中に)、桜前線が通過し、GWの観光地渋滞も終わって静かな田舎町に戻りました。私のGWは、ひたすら薪割りと産直販売用の花苗の出荷に使い果たし、体重が3キロ減ってへろへろになって職場復帰しました。
4月に29人の若者を引き連れて、陸前高田でボランティアを敢行しました。山田さんからの催促もあり、6月の岩手医労連企画を紹介します。6月7日に陸前高田市米崎町の仮設住宅に、三遊亭京楽という落語家(三遊亭円楽一門の真打)を呼んで「被災地寄席」を開催します。この企画の支援を求めています。
6月8・9日は連続してボランティア活動も陸前高田市で行います。もし皆さんが、この企画に連動して現地入りして頂ければ、鈴木がサポートが可能です。
宿泊は、6/7は「あづま荘」が確保できます。
6/8と6/9は一関市内しか宿は取れません。
交通手段は、乗合・山田カーか、新幹線とレンタカーをお勧めします。
さよなら原発5.5集会
法政同窓の皆さん、今晩は。加藤です。
昨日の泊原発停止の日に東京の芝公園で行われた「さよなら原発5・5ゴーゴー集会」の詳細な報告は、山口さんからあると思いますが簡単な報告をします。
当日は、法政九条の会の旗の下に集ったのは、13名でした。前日とはうって変わって好天に恵まれた空模様でした。参加者の皆さん、暑い中お疲れ様でした。
会場の芝公園23号地は、幼稚園の園庭のようなこぢんまりとした広場で、坂の途中にある関係で窪地のようになっていて三方を樹木などに囲まれたさえない公園です。ここに旗が林立し五千五百人が集まったと言うわけ。ここでもオレンジ色の我が九条の会の二本の幟旗は目立ちました。
当日のデモの様子は「さよなら原発アクション」の動画にアップされていましたがチラチラと幟を確認できました。我が法政に刺激されたのか、白地に青のスクールカラーで「明大全共闘」と「明大土曜会」の幟が目に付きましたが、林立する旗の多くは連合系組合のもので、九条の会の旗は我々だけだったようにお見受けしました。前回もそうでしたが設営の下手くそで発言者の姿も見えにくく声も聞き取りにくい難点がありましたが場所を移動してからは、内橋さんや落合さんなどのお話しは聞くことができました。二時間近く立ったままでお話しや訴えを聞いてデモは出発。ひと気のないコースを(東京タワーそばは別として)山口さんのシュプレヒコールを唱和しながらデモリました。終点の浜松町芝離宮に着く前からビールの虫が疼いた我が隊列はまたもや解散地点前に脱落。7名で喉を潤しました。
この席で話題になった一つが東京新聞の報道。当日の一面見出しは横に大きく「原発ゼロ時代に挑む」、縦見出しは「運転46年全50基が停止」。やるじゃないか「東京新聞」てなわけ。ちなみに今日6日の一面見出しは「原発ゼロ 未来へつなぐ」。ひとしきりの議論の後、「東京新聞は、左の産経新聞だ」との言に、妙に納得した僕でした。
もう一つは、集会の盛り上がりをどう見るか。つまり多いのか少ないのか。結果、共同のあり方をめぐって。会場は「立錐の余地もない」ではなく空き空間もありました。「しんぶん赤旗」によれば全労連主体の「全国連絡会」は、新橋で駅頭宣伝で芝公園の集会には関わっていないようです。どうにかならないのかが結論でしょうか。7日になりました。今晩は、ここまで。
九条の会東京連絡会大交流会(7月1日)に参加しよう!
●「次世代への継承」をテーマに九条の会東京連絡会の大交流会(7月1日)で分科会に参加したい。 皆さまのお知恵を!
この目論見は、被災地への第三次ボランティアに参加したメンバーの、報告文をどうしようという雑談の中から飛び出したものですが、契機はどうあれ、古くて新しい、なかなか悩ましいこのテーマに挑戦したいと考えております。
九条の会は東京で900ぐらいあり、うち600余にパイプを持っている東京連絡会ですが、多くのところでスタート数年で歩みが遅くなったり止まりつつあるのが実情のようです。「憲法」の文字がマスメディアに大きく載らない情勢が続いてきたり、メンバーの高齢化や、経験交流による活動の刷新がなかなかできないことなどが原因のようです。(もちろん、活発に活動を継続しておられる会も存在しています。)
私たちがエネルギーを使ってきた学生運動でもそうですが、各種市民団体や労働組合で何を後継者に引き継いできたのでしょうか、また家庭で子や孫に何を引き渡すことができているのでしょうか。あれこれ、やり残したことはありませんか。
私はこの問題でも団塊世代へのエール、「死ぬ前にたたかえ」が浮かんできます。
そこで、OB九条の会として、団塊世代(の前後)が口火を切り、地域や職域、家庭での運動などの継承、世代間継承について教訓やコツ、ヒントをまとめることができないものかと頭をひねっている次第です。
一般企業では事業継承へ様々な努力、試みが積み上げられています。マーケティングの視点からのセミナーなどもあるようです。そこから学べるものはあるのでしょうか。
私たちの先輩、同輩、後輩の経験と知力の総動員で、このテーマを究めてみたい、良いチャンスにしたいと思います。
以上は私の私見ですが、5月11日の世話人会でも論議していただければと願っております。
(Ⅱ社OB 山田幹夫 2012.5.1メーデーの日に記載)
5.5原発ゼロ集会!
法政大学の同窓の皆様 加藤です。
29日付で木村さんからメールが届いたかと思いますが、下記のご案内の様に、5月5日のこどもの日に集会があります。
法政九条の会としても会の幟旗二本の「さよなら原発鯉のぼり」を結び付けて、日本の原発がゼロになる日を共有したいと思います。ぜひ多くの同窓の参加をお待ちしています。
5月5日12時45分に 都営三田線「御成門」A1出口の地上で待っています。
会場で出会えない場合は携帯で連絡を!
《5月5日には日本中の原子力発電所が停止します。現在、唯一稼働している北海道電力泊原発の3号機がこの日に定期検査入りして停止。5月5日のこどもの日、東京・芝公園でもう原発の再稼働はさせないことを確認し合う集会を開催します。》
勿論、その後しかるべき場所でしかるべく呑みますよ!
■集会名:原発ゼロの日 さようなら原発5・5(ゴーゴー)集会
■日時:5月5日(土)13:00~コンサート、13:30~集会、14:45~パレード出発
■場所:芝公園23号地 地図(港区芝公園3丁目4、東京タワー北東200m)http://sayonara-nukes.org/2012/04/55npp_zero/
4月30日はベトナム解放記念日
佐賀の山下です。
1975年4月30日、サイゴン陥落と南ベトナム崩壊。
南部解放記念日とも呼はれ、サイゴン陥落を指します。
当時、全世界で、翌日のメーデーで喚起の声で盛り上がりました。
わたしは、青春真っ盛り。
ベトナム反戦、沖縄返還のたたかい、暴力学生のテロ反対、大学民主化の運動に参加し、学内で授業が受けられず、学外ゼミなどで、経済、社会問題での思想・哲学、方法論、史観などを、いまわ亡き恩師から学びました。
学んだ学部は教授も変わり、社会政策ハウツー的に変質したようです。
わたしは、69年入学、71年に退学しました。
松田さんが全共闘一派に襲われた1年後の退学。
ベトナム解放時は佐賀県鹿島市で共産党専従をしていました。市内のメーデーでの歓声とも驚きの声は、いまでも覚えています。
ベトナム解放から37年、米国は政治・経済面で相対的力を低下しまがらも、いまでも、軍事支配体制は変わらず、従属国に経済・軍事負担を押し付けています。
いま、野田首相が米国参府し、臣下の礼をしています。
この九条の会が、日本国民の未来を切り開く世論喚起の一翼になってほしいと思います。
松田さんを支え、そして、このメーリング・ポスト、HPを支える皆さんに感謝し、わたしも佐賀で、政治刷新の運動を続けていきたいと思います。