「松田さんを支える会」が「支え」てきた「地の塩」の志 [教育]

五十嵐仁の転成仁語(2010/4/5)

 「地の塩」とは、新約聖書の山上の垂訓のひとつだそうです。「マタイ福音書の5章13節から16節に記述がある。そのほかマルコ福音書の9章48節から50節、ルカ福音書の14章34節から35節に、地の塩に関する同様の記述がある」と、ウィキペデアでは解説されています。
「地の塩」は、料理に味を付けたり、腐敗を防いだりするために、また人間の健康にとってもなくてはならぬものなのです。つまり、目立たないけれど、社会に不可欠で有用な存在こそ、「地の塩」にほかなりません。

一昨日の「集い」に参加された「松田さんを支える会」のメンバーこそ、この「地の塩」であるという思いを強く抱きました。法政大学から巣立った後も、全国各地、社会の隅々に散らばりながら、学生運動で学んだ勇気と志を持続させてきたからです。
「支える会」が「支え」てきたものは、松田さんの生活だけではありませんでした。これら「地の塩」の存在をも支えて来たのではないでしょうか。

70年前後の学生運動については、あれだけの問題提起をし華々しい活動をしながら、卒業したら雲散霧消してしまったという見方が一般的です。ときには、企業戦士として「企業社会」を支えてきたと、厳しく批判されることもあります。
それは、確かに、全共闘に加わった学生の多くに当てはまる弱点であり、問題点です。たとえば、信州大学全共闘議長であった猪瀬直樹は、その後、執筆家となって名を挙げ、小泉内閣の行革断行評議会や道路関係四公団民営化推進委員会、地方分権改革推進委員会の委員などを歴任し、今では、東京都副知事として石原慎太郎都知事の右腕になっています。
しかし、松田さんを支えてきた人々のように、そうではない生き方を選んだ人々も沢山いたという事実を忘れてはなりません。一昨日の「集い」で、私はそのような人々にお会いすることができました。大学を出てからも志を持続させ、様々な形で政治や社会を変えるために力を尽くしてきた人々です。

この点が、全共闘に加わった学生たちと根本的に異なっているのではないでしょうか。マスコミなどのとらえ方では、この相違がほとんど意識されていません。
「日共系」「代々木系」であれば頭から無視してかかるというのが、当時のマスコミが持っていた最大の弱点であり、問題点でした。それは、当時の学生運動の総括においても継続されていると言わざるを得ません。
たとえ、「日共系」「代々木系」であったとしても、当時の学生運動とその参加者に対して、事実に即した正当な評価がなされるべきです。暴力学生を泳がせていた治安当局も、全共闘運動を美化したマコミもまた、松田さんに対する加害者の一員であるということを自覚してもらいたいものです。

最後に、一昨日の「集い」への返信用葉書に記載されていたメッセージのいくつかを紹介させていただくことにしましょう。これは当日配布された資料に入っていたものです。

○Eさん
あれから40年経ったのですね。法政大学のあの当時の異様な雰囲気を思い出します。病院で再会した松田さんの姿を思い浮かべ、その後の苦労はいかばかりだったろうかと思っています。しかし、40年後、元気で今日の日を迎えられたことに感謝しています。

○Cさん
あの日から40年経ちますが、松田さんの事件のことは忘れたことはありません。私は事件をきっかけに大学に行かなくなり、新しい職場に入り新しい生活をスタートさせました。しかし、松田さんのその後の生活を想うと、やりきれない思いが残り、複雑な気持ちを抱えて今日にいたっています。松田さんには、いつまでも元気でいて欲しいと願っています。

○Tさん
私も退職を迎えた歳になりました。40年の長さを感じます。それでも、私の記憶からあの日の事は消えることはありません。辛い、悔しい思い出です。この長い年月を自分の身体と向かい合い、頑張ってこられた松田さんに敬意を表します。これからもお互い元気で長生きしましょう。そして「支える会」の事務局の皆さん、御苦労様です。

○Iさん
「1.21」の当時の色々な場面を今でも夢に見て、汗をかいている時があります。松田君と一緒にお茶の水の医科歯科大の病院に大学の職員と共に行った事、医師の診断が「重篤」であった事など……。松田君の犠牲の上に今日の私があるのかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいです。いつまでもお元気でと念じております。

○Wさん
あの日の晩のことは、今でも鮮明に頭の中に焼きついています。級友の7~8人と教室に乱入してきた暴力集団から逃げ、学外に出られる箇所を探し回ったことを、40年経った今も記憶から消えません。忙しさを理由に、この40年、ほとんど支える会に参加してこなかったことを反省しています。

○Sさん
法政大学の学生運動に参加したことが、その後の私の人生を大きく変えました。組合活動で疲れた心を支えてくれるのが、当時を生き抜いた自分であり、仲間の存在であり、松田さんの生き方です。私たちを支え続けるためにも、いつまでも、いつまでも長生きしてください。

○Kさん
私は1969年度と70年度の法政大学教職員組合の書記長でした。「1.21事件」を防止できなかったことに責任を痛感しています。その後、松田さんと「かんちく」の仲間の方々の活動に本当に感動しております。

○Oさん
あれから松田さんは復学そして卒業され、お母さんの待つ高知に帰られました。大勢の仲間たちの応援が続いたのは、松田さんご自身が重い後遺症にもかかわらず厳しい現実に立ち向かわれている姿があったからでしょう。40年が過ぎ還暦を迎える年頃になりました。1・21事件を風化させない!思いを強くしています。

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