「2活動報告」カテゴリーアーカイブ

2015年3月号会報(NO21)

法政大学Ⅱ部九条の会

本号の主な内容

*法政大学の最近状況レポート(校友会が創設されました)

*一斉地方選で奮闘中の同窓生紹介 *「平和の申し子たちへ」

*<惜別> 安藤三四郎さん「逝ってきます」

*辺野古基地新設阻止を  *投稿・川上徹葬儀に参列して

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★母校・法政大学の最近状況レポート

「自由と進歩」の原点重視、大きな変化あり

学内での企画実現へ、知恵と情報の集中を

昨年、一般社団法人「法政大学校友会」が新たに創設されたことを耳にしたため、母校の状況をリサーチして、いくつかの面からまとめてみました。情報を寄せていただいた学内外の皆さまに感謝いたします。

(1)学生自治会は壊滅状態、中核派も学内での宣伝はできず 123

まず、学内状況ですが、学生自治会は壊滅状態のままです。

「中核派」は自治会を名乗っているものの、学内では活動できずに本校の正門前で宣伝行動。「不当逮捕」に抗議などと叫んでいますが、基本的に彼らは校内立ち入り禁止措置になっています。なお、中核派は衆院8区(杉並区)で候補者を出し16,000票を得ており、杉並の区議もいて同区が拠点となっています。

大学は2000年頃に10数年ぶりの学費値上げをしましたが、反対運動は全く起きず。説明文書を学内に置いても手に取る学生は少なかったそうです。当時はまだ自治会費を代理徴収で中核派に渡していたためか、中核派も反対しなかったのだろうと言う方がおられました。

800万円の自治会費は前期・後期に分けて、驚きましたが、現金で渡していたようです。しかし、自治会費の代理徴収は、大学側が自治会成立状況などをチェックして順次やめていき、現在に至ります。

(2)Ⅱ部廃止・新学部誕生の結果、大学財政が改善

2005年に、当時は勤労学生の需要が従来に比べ激減していたこともあってⅡ部の募集を順次停止していましたが、最後に残っていた文学部教育学科と経済学部商業学科を「キャリアデザイン学部」として改組し、発足させました。大学が予想していた以上に同学部の人気が高く、Ⅱ部の学費をⅠ部並みに変えたことも相まって、結果として、余裕が少なかった大学財政を改善させることになりました。

(3)教職員組合は3つ。職員は学部が増えたのに約400人のまま

教職員組合は現在、3つの組合があり、大学側は交渉を3回やらなくてはならず、手間が増えて担当者は大変だという声がありました。

組合の組織率は5割程度で、特に教員の組織率が悪いそうです。職員の専任数は約400人で、昔とそれほど変わりないものの非正規が増えています。学部が増え事務量も増えたのに正規職員は増やさず非正規職員で対応という、今の日本の労働状況がここでも。

・全法政(法政大学教職員組合)=2014年11月に創立60周年記念祝賀会を開催。

・第一職組(法政大学第一職員組合)=全法政から脱退した一部の職員でつくった第二組合。

・新法政=教養部の教員中心に全法政から脱退した第二組合。

(4)15の学部となり、各教授会は民主的な雰囲気があると――

学部は現在、15あります。清成総長時代に6学部→10学部→11学部となり、平林総長及び増田総長時代に現在の15学部になりました。

法政一高は吉祥寺にあり(以前の場所から移転)、「法政大学付属中学高等学校」に名称を変更し、同時に男女共学となりました。法政二高、法政大学付属第二中・高等学校は、現在、川崎市の木月に150億円をかけて建て替え中です。女子高、法政大学女子高等学校は横浜市鶴見区(京浜急行・生麦駅)にあります。

教授会も15学部あり、集まると「やせても枯れても法政の学部長会議」という雰囲気があり、民主的ではあるというのが、話を聞いた方の弁でした。

(5)総長の統治システム強化に反対の運動を反映し、新総長と理事会が誕生

文科省は現在、学長権限の拡大を図ろうとしていますが、それに先立って法政では平林総長(当時)が学部教授会の権限を総長に集中させるガバナンス(統治システム)を企図したため、「法政大学のガバナンスを考える会」が教職員により結成され、全学的な反対集会やニュースを出して反対の動きが活発化しました。(注:法政は総長、学長、理事長が同一人)

そのメンバーの多くが推したのが前総長の増田氏であり、現総長の田中優子氏に続きます。

当時の清成総長らは、職員が自分たちの管理者である理事を選ぶのはおかしいと言い、職員の代表理事は選挙ではなく推薦にしてしまいました。

(この経過は雑誌『前衛』2014年5月号、いま「大学改革」を考える、土井誠論文を参照)

こうした学内統治のやり方を文部省が進めているのです。要するに、教授会は学生の成績認定など学事に関する事項だけに制限するというのです。

昨年の総長選挙では田中優子氏が選出され、大きく報道されました。学内の方の話では、対抗馬の浜村氏(法)も「ガバナンスを考える会」に沿っていたのですが、大方の予想を覆して田中優子さんが多くの支持を得たということのようです。

現理事にも民主的な方が選出されていて、全体としてはまじめな理事会と言えるようです。

文科省が「スーパーグローバルユニバーシティ事業」と銘打って、世界に打って出る大学づくりを推進しています。大学を選別して補助金を出すやり方とも言えますが、法政大学は選ばれた2群24大学の中に入り、10年間毎年5億円の補助金をもらえることになりました。中央大学や青山学院は入っていません。最近の法政はスポーツ面では元気がないが、学術分野で気を吐いたと、学内では評価されているそうです。

(6)新しく一般社団法人の「校友会」が発足しました。毎年2億円の会費収入

以前は「校友連合会」でしたが、金銭にからむ問題が指摘されたり(例えば、評議員になれば地元名士になれるとおカネが動いていたという話も)、運営面での課題もあったようで、大学、後援会(在学生の父母で構成)と3者で協議し、新たな組織「一般社団法人 法政大学校友会」として発足しました。

弱体化した経費補助の意味もあり、在学生から3年次に入会金3万円を授業料と同時に徴収(大学の代理徴収)し、卒業時に校友会に納金されます。約7,000人から3万円、毎年2億円が校友会に入ることになります。将来、校友会館建設のため65%を基金に、35%が校友会運営費になります。

莫大な資金が積み立てられていくことになるので、当然、財政管理が重要ですから、大学から総括本部長が監事として就任しています。

◆ 卒業生も3万円の終身会費を払えば、校友会員になれます

全国には40万人(公称)の同窓生がおり、3万円の終身会費を払うと卒業生も校友会員(終身)になれます。終身会員が増えると、その同窓会は影響力が出る可能性があります。校友会が学外理事4人の枠を持つので、大学の理事選挙でも優位になるかも知れません。大学理事会は(学内を含め)11人で構成されており、大学運営に一定の力を発揮できるからです。学内のある方は、「理事会は全会一致が慣行なので反対ばかりしているわけにはいかないですが…」と語っていました。

校友会の理事会には学部の各同窓会からも理事が選出されています。定員は3人で法、経、営から出ていますが、社会学部からは出ていません。

≪校友会のホームページから≫

「一般社団法人法政大学校友会(以下、校友会)は、学校法人法政大学が設置する学校の卒業生および教職員(就任2年以上)の会員をもって組織されます。校友会は、全国各地の地域支部、学部・付属校同窓会、職域やサークル関係の卒業生団体と、個人加入の会員により構成されています。また、これに加えて2014年3月以降の卒業生は、卒業年度ごとに原則一斉加入する「年度同期会」を通じて校友会に参加することになります。」

(7)大学内での集会・企画の可能性は?

九条の会として学内で教職員や学生とともに集会などを開きたいという希望があるということを、学内の方々に打診してみましたが、反応をまとめると次のような内容になります。

「みなさんの企画は素晴らしいことだが、教職組への組合加入率が減り意識が低下している」

「仕事、仕事で追われ、自分のことで手いっぱいという現状もある」

「学内では平和問題などの情報は少ない。学内からの発信や若い人たちに知ってもらうことは大事だと考える」

「東京学者研究者の会(共産党を支援する)が飯田橋駅頭でたまに宣伝している」(東大では正門前で)

「大学の沖縄文化研究所が2014年4月、大江建三郎さんの講演会を開いた。屋嘉宗彦教授(法学部)が所長で、彼は沖縄出身。2015年に日中友好協会と共催で戦後70年の集会を検討している」

(8)55年館、58年館を建て直し、広場は新建物の南側に移る

「3.11」の地震で511番教室の天井が落ちたため、55年館と58年館を建て替えることになり、先行して55年館前の広場に新校舎建設の工事が始まっています(両館を解体撤去し、跡地は広場となる)。

教室使用の管理は学務部の管轄。教室が空いている時間とその他施設は子会社を作り管理しています。料金は1日単位で、一般の学外者は教室使用の申請をしないと借りられないが、使用料は高額。学会は無料。教室が空いている時に使うのは可能であるが、教室が足りないのが現状で、簡単ではないそうです。

有力な教員が「やりたい」と言えば学内集会をやれないことはないものの、政治的な集会には「中核派対策をやっているのに余計なことはしないで欲しい」という反発もあると思われ、信念を持っている教授でないと困難ではという声がありました。こっちには許可し、中核派には貸さないとは何だということになってもめる可能性を心配する大学関係者もおられます。

以前「法政平和大学」が学内で開かれていましたが、中心的教員が退職し、現在はどうなっているかは、今後リサーチしたいと思います。

  • 学内での企画実現をめざして

本校の正門前での宣伝は、公道ですから、大学の許可などは必要ありませんから、やれないことはないですが、中核派などと混同される懸念があります。

多摩キャンパスは可能のようです。中核派がいないことが大きな要因でしょう。

社会学部の田中優子総長が「そろそろ『社会運動』の話をしよう――他人ゴトから自分ゴトへ。社会を変えるための実践論」(2014/10 明石書店)を出しています。政治的な活動ができないわけではなく、ゼミで日常的な教練をしているほどですから。

実現には、主体となる教員探しが先決ではないかと思います。九条の会の世話人会でネットワークを駆使して教授陣とのコンタクトを探りましょう。知り合いが意外とあるのではないでしょうか。「情報を世話人会へ!」と強調したい。(M・Y)

 

兵庫・尼崎から複数県議に挑戦、たたかいます

庄本えつこ=旧姓・平野)                                  456

法政大学OBのみなさま、1974年Ⅱ文教育学科入学の庄本えつこ(旧姓平野)です。1991年に夫の転勤に伴って兵庫県西宮市に引っ越し、日本共産党尼崎地区委員会の勤務員になりました。勤務員の仕事は多岐にわたります。市議団の事務局長をやったり、各大衆団体の役員も引き受けたり…などするうち、1998年の秋に県議会議員補欠選挙に出ることになってしまったのです。

  • 「ベテラン候補者」で、12月の総選挙が最後のご奉公のつもりが… こう見えて(どのように見えるかはわかりませんが)、私はシャイなのです。「人前で演説するなんて、できません」と断り続けたのに地区委員長の粘りで押し切られてしまいました。「一度だけのご奉公」のつもりでした。結果は当選できませんでしたが(ホッ!)、五党連合65,000票に対し共産党の私51,000票と善戦したということが地区委員会の記憶に刻まれ、2003年の衆議院比例・兵庫8区小選挙区重複立候補や、またまた県議会補欠も含め昨年12月の総選挙まで7回も候補者活動をしたのです。周りから「ベテラン候補者」と呼ばれたりしました。もう60歳だし、これが最後の選挙と決め、元気に楽しく総選挙をたたかいました。

私は、安倍自公政権の暴走ストップの選挙にしたいと思って、政治の5つの転換―「消費税増税は、先送りではなくキッパリ中止!」「アベノミクスストップでくらし第1」「集団的自衛権行使容認の閣議決定は撤回」「原発ゼロ」「新基地建設中止!平和で豊かな沖縄をご一緒に」とともに、日本共産党の値打ち―共産党の躍進こそ政治を変える確かな力であることを訴えました。

  • 私は、当選には及ばなかったものの6万を超える得票をいただき、日本共産党は21議席に大躍進 比例近畿ブロックで兵庫の堀内照文さんを含み4人の当選。兵庫では10年ぶりの国会議員です。本当にうれしいです。どこに行っても、誰に会っても「よかったですね。うれしいですね」と言われました。

でも、これからが勝負だと思っていました。安倍政権は、数とお金の力で国民の要求をねじ伏せようとしています。

「消費税が上がって買い物に行くのが怖い。食料品は割引シールが貼られてからしか行かないことに決めた」「正社員なんて夢のまた夢。結婚もできない。家族を持てないまま老後は孤独死か」「奨学金を返し始めて9年以上になるけどまだ100万円残っていてしんどい」「医療費が高くて、病院に行けない」など、これが国民の声です。こんな時、地方自治体は「住民のくらし第一」で仕事をしなければならないはずです。しかし自民、民主、公明、維新など日本共産党以外のオール与党の兵庫県政は、安倍暴走政権に対決するどころか福祉を削る「行革」で弱いものいじめばかり。本当に兵庫県はひどいんです。

尼崎は8年前まで2議席を確保していましたが、定数が7に減らされ共倒れしてしまい4年前の選挙は1人に絞りました。「共産党が躍進し市民から期待を寄せてもらっている今、1人の議員でいいのか。2人にすべき」の声がいろいろな方面から出され、侃々諤々の議論の末、来る県議会議員選挙に立候補をすることになりました。私にとっては新しい決断です。2人を勝ち取ることは生半可ではできません。しかし決断した以上「尼崎市民のいのち・くらしを守るために」必ず勝ちたいと思います。ぜひ、応援して下さいね。よろしくお願いします。

最後になりましたが、みなさまのますますのご健勝とご活躍をお祈りいたします。(2015年1月29日)

神奈川・川崎で GOTO 県政!

後藤真左美、1985年社会学部入学)

 川崎区から日本共産党より神奈川県議会選挙に挑戦する“ごとう真左美”です。1985年に社会学部応用経済学科に入学、多摩キャンパスの2期生です。

法政女子校時代、広島への研修旅行で、被爆者の実相を聞き、二度と戦争はしてはいけない、もっと能動的に生きていきたいと思い、社会進歩と自分の生き方を重ね合わせる人生の選択をしました。「自由と進歩」「女性である前に人間であれ」、この法政大学の精神が、私の根底となっています。

田沼肇ゼミで学び、近現代史を学ぶサークルを作り、牧歌的な多摩キャンパスでのびのび過ごしました。

川崎区の定数は2議席へと減らされてしまい大激戦区です。しかし、神奈川県には共産党の議席がひとつもなくなってしまい、県民に冷たい、県民の声が届かない県政になっています。なんとしても県会へ行くために「自由と進歩」そしてチャレンジ精神全開で毎日がんばっています! ツイッターもやっていますので、ぜひご覧ください!

(ごとう真左美で検索をお願いします)

  • 法政大学OBの地方選立候補者(神奈川県関係)(2015年2月の「革新のひろば」号外から)

後藤真左美――ファイスブックで五十嵐仁さんを恩師と紹介しています

井坂しんや――神奈川県議候補(横須賀市、市議3期。定数5) 45歳。法学部卒

田所健太郎――相模原市市議候補(相模原市緑区、定数11) 25歳。社会学部卒

 

<惜別>   同じ時代に出会えたことに感謝します。

逝ってきます

この度、遥か山のかなたに旅立つことになりました。私が歩いて来た道を振り返ってみれば、いつも君がいました。道に迷ったり、仲間に迷惑をかけたりということもありましたが、君と共に歩いてきました。寛大な君の暖かい心遣いに支えられて、今日ここまで来ることができたと思います。

この先の旅は、ひとり単独行で参りますが、先に逝った仲間と合流できるのが楽しみです。

私もいろいろな道を通って来ましたが、自分の信条、信念は最終的には貫き通せた人生だと確信しています。悔いはありません。

お世話になりました。ありがとう。君と出会えてよかった。友情に感謝します。さようなら

2015年1月15日

旅立ちます  安藤 三四郎

〔娘さんから〕

突然この様なメールをお送りして申し訳ありません。

先週15日に父が永眠致しました。上記は生前、父が用意した皆様に向けてのお別れのご挨拶です。

遺言により親族のみで本日葬儀を執り行いました。

父の希望とは言え、皆様には大変お世話になったにも関わらず、この様な形でのご報告になってしまった無礼をどうかお許し下さい。

あまりに突然の事で、母も私もただ呆然とするばかりですが、これからは母娘ふたりで支え合って生きて行こうと思っております。

寒い日が続いております。皆様どうぞご自愛下さい。(1月20日 安藤 長女)

~~~~~~~~~~~~~~三四郎遺影1~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

○…思い出・送る言葉

「安藤さん」とか「安藤君」とか呼んだことはない。いつも「安藤」か『三四郎』の呼び捨てだった。1966年4月、法Ⅱの社Eで出会って以来、そんな間柄が49年になる。北海道から出てきた僕には東京の生まれ育ちの人間がまぶしかった。東京人の住まいを訪ねたのは彼の家が初めてだった。

卒業して数年後、彼の職場を訪ねたことがあった。ちょうど昼休みで、組合事務所の前のエレベーターホールに大勢の女性が輪をつくり、その真ん中で彼が山登りの道具の説明をしていた。

数年前、「心臓が悪いので迷惑かもしれないが俺もモンゴルに行きたい。連れていけ」との話があり、2度同行した。「いい旅だった。いい写真が撮れた」と喜んでくれた。

1月12日に母上が亡くなられた。「おふくろの前に死にたくない」と言っていたから安心したのかもしれない。「逝ってきます」を読んで、死を自覚した彼の心情が切なかったが、僕の方こそ君の友情に感謝したいという気持ちが湧きあがった。ご冥福を祈ります。

(クラスメイト)T・K

三四郎遺影2

【左の写真】ノーモアヒバクシャの集会の帰り道、有楽町のビアホールで一杯! 三四郎さんとは非暴力で国民的統一戦線をと話した思い出があります。

(提供:M・K

 

 

 

 

沖縄、辺野古基地新設阻止へ、できることを――抗議・連帯のハガキ、映画を観る…

昨年11月の沖縄知事選挙に少しでも応援をと会から3人を派遣していただいてから、もう3カ月。現地では激動が続いています。紙面をお借りしてレポートの続編としてアピールをお送りします。(K・O)

111  私は翁長知事へ連帯ハガキ、政府へは「撤回せよ」のハガキを連日のように投函

知事(法政大学1975年卒)が初登庁し間もなく3か月が過ぎようとしています。この間安倍政権は「予定どおり粛々と進めていく」と菅官房長官(法政大学1973年、法卒)が話し、海上保安庁(海猿)を増やして辺野古新基地建設阻止の闘いを邪魔しようとしています。

1月20日に映画「圧殺の海」の影山あさ子共同監督はカメラを奪おうとする保安官に馬乗りされるという事件がありました。辺野古の海にはジュゴンが生息しています。

▼海を動・生物たちから奪わない、辺野古は名護市民のもの、翁長知事に「県民の願い実現の先頭に立っている知事は私たちの誇りです」とほぼ毎日ハガキを送っています。

▼安倍政権には「新基地計画を撤回せよ」と書き52円切手を貼っています。(本当は1~2週間、辺野古に行きたい気持ち!)

2月15日に「圧殺の海」を観ました。監督、小森陽一、カヌー隊リーダーがトークショーで現状を語ってくれました。今せめぎあいが続いています。自分のできることをやっていきたいと思います。平山知子弁護士の夫、平山基生さんも辺野古に家を借りて闘っているとか。弁護士は「皆さん、とにかく行ってください」と訴えています。

⇒ 今出来ること、抗議ハガキや知事への激励エール葉書などを粛々とやっていきましょう。ポレポレ東中野で上映中の映画「圧殺の海-沖縄・辺野古」(森の映画社、109分)を観ましょう(3月13日まで)。

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沖縄で実現 ~最も新しい形の統一戦線のひな型か!?~

T・O

日本の現実に合った新しい形の統一戦線の理論と実践を模索していたボクにはぴったりの沖縄知事選挙であった。辺野古に基地を作らせない人なら誰とでも共闘する選挙。そんな訳で3日間全力で応援活動をし、帰りの飛行機の中で翁長勝利を知る最高のシチュエーションを経験できたのだ。

この歴史的瞬間、現場に居合わせる事ができ、この上ない喜びだ。平和は闘ってこそ勝ち取れる。

「11月1日菅原文太氏来る」と書いたポスターを選挙応援中見た。それは最期に命をけずって16000人集会に参加して、オナガ支持と政治家の役割を声をふりしぼって訴える映像を後から見ることになった。文太氏は「政治家の役割は国民を飢えさせないこと、絶対戦争をしないこと」と訴えていた。文太さんはすごい人です。最期に翁長勝利を見ることができたのは幸福だったと思う。合掌。――文太さん以外にもたくさんの「文太さん」が沖縄県外から応援に行っていた。

12月8・9・10日と研究会の用事で沖縄にいた。衆議院選挙最終日の10日、偶然1区赤嶺さんの演説会場県庁前広場にいた。応援弁士のメンバーがすごい。志位さん、社会大衆党参議院議員糸数さん、沖縄自民党を除名された人たちの会派代表、この日初登庁の翁長知事、城間那覇市長。みんな赤嶺さんを応援しながら沖縄4つの選挙区全部で非自民の候補者を当選させようと訴える。沖縄では国政選挙でも「オール沖縄」という統一戦線が出来ていた。そして見事4議席を取ってしまった。

沖縄だからできると言ってしまえば身も蓋もない。この中から何をつかむのか。沖縄県外は何を学ぶのか。

【投稿】 「川上徹さんとのお別れの会」に参列して

今年1月2日、川上徹氏が逝去されました(享年74歳)。

1964年再建全学連委員長、66年から72年まで民青中央常任委員を務め、新日和見主義批判で査問を受けた川上氏(40年生まれ、以下同じ)のことは多くの方が知っておられることでしょう。

1月24日、日本青年館国際ホールで開催された「川上徹さんとのお別れの会」は300名の友人や偲ぶ方々で満席でした。12名の「お別れの言葉」とご子息の「お礼の言葉」を受けて、参列者全員の献花で締めくくられました。

実行委員長の梓澤和幸弁護士(43年)から法政大学OBにと案内状が届き、Y・K、M・K、私が参列しました。私たちは2000年、法政大学学生運動の歴史編集委員会を立ち上げる際に川上氏と懇談させていただいたことがあります。

受付でいただいた同時代社の袋には「お礼の言葉」や「お別れの言葉」そして同時代社出版録などが同封されていました。略歴には「亀戸で生まれ。60年東大入学と共に日本共産党に入党。80年同時代社設立。90年日本共産党を離党」とあり、著書は『もう一度船を出せ』『査問』『アカ』『素描・1960年代』『戦後左翼たちの誕生と衰亡』とかいてありました。

(喪主)川上蓉子さんの「お礼の言葉」(抜粋)            777

60年大学生・青年運動のリーダーでしたが、10年余りで突然活動の場を失い、全ての道を断たれた40年余りの歳月、その後の生き方こそ川上徹の真骨頂であった。彼にはもう一冊書きとどめたいテーマがありました。

「45年の敗戦を幼児期で迎え、戦争の痛みのカケラを実感として受け止め、戦後の貧しさの中から明日への希望を求めて、60年安保を担った僕らの世代。しかし、時代の急速な変化がその世代を消した。左翼と呼ばれた様々な組織も今や消え去ろうとしている。それは左翼の側にも問題があったはずだ。僕らが見ようとしなかったもの、気がつかなかったもの、それを少しでも掬い取って、記録として残したい」

学生運動=全共闘というマスコミの喧伝に全学連の一員として闘った法政大学の学生運動を残そうと川上さんのお話を聞いたのが2000年でした。「まじめで大事なテーマだ。作る側の満足が大事だ」と励ましてくれました。

「お別れの会」出席者の多くは60年代世代。70年代世代の私にとって「一時代が終わった」のは理解できても、このままでは終われないと思っています。 (J・Y)

――――――――― <惜別> 尊敬できる大学同窓生を偲ぶ ――――――――

後藤健二氏(1967年9月22日~2015年1月31日)。宮城県仙台市で末っ子として生まれる。法政大学第二高等学校に進み、1991年に法政大学社会学部応用経済学科(社会政策科学科)を卒業。在学中にアメリカコロンビア大学語学留学1996年に映像通信会社インデペンデント・プレスを設立。兄が経営するアルバイトでは、英語が堪能であったため生徒からは「健二先生」と呼ばれ慕われる人気講師だった。自身はキリスト教信仰するようになり、取材の際には小さな聖書を持ち歩いていた。

2006年、紛争地域の子供を取材した『ダイヤモンドより平和がほしい』で第53回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。2011年東日本大震災では、被災地の石巻市気仙沼市日本ユニセフ協会の記録員を務めた。中東での取材中、アル=ヌスラ戦線に拘束されたものの、1日で解放された。2014年10月後半から11月前半にテロ組織「イスラム国」に拘束された末、2015年1月31日に殺害されたと見られている。

******************** 編集後記 ********************

▲残念な悲報、訃報でした。66年Ⅱ社入学の安藤三四郎さんが1月15日に亡くなったとの知らせを安藤さんと同期でⅡ社自委員長であったKさんから。▲安藤さんはⅡ部九条の会の会員として、体調が悪い中でも集会に共に参加され、「松田さんを支える会」や様々な集いにも参加されました。大きな体躯とは裏腹の物静かで穏やかな話しぶりは安藤さん独特の存在感を与えていました。心よりお悔やみを申し上げます。▲安藤さんができなくなったことを、私たちがきちんと継続していくことを誓いあいたいです。(Y・K)

 

沖縄知事選 現地報告

翁長氏と写真   2014年11月15日夜送信

「未来の自分から今の自分を誇れるような選択を」というアピールに大拍手と歓声

密集、鈴なりとはこういうことを言うのだろう。那覇市中心部の県庁前の広場と向かい側の広い空間はアッという間に人、人で埋まった。主催者発表で7,500人。午後6時30分からのオナガ陣営の集結集会は「打ち上げ」とは言わないと強調されていたが、明日の投票箱の蓋が閉まるまでがんばることを弁士が強調する。
右翼と思われる乗用車が軍歌や攻撃するセリフを流しながら、オナガ宣伝カーと群集の間の道路を何度も通過する。沖縄の人たちは、そんな車には手を出さず演説は続く。警察は規制しない。宣伝カー周辺には制服警官の姿はない。
統一候補を支える各政党代表や候補者10人以上の「2分スピーチ」も力が入り説得力があるが、左官業という青年と20代とおぼしき女性のアピールは、特に会場に響いた。

「未来の自分から今の自分を誇れるよう選択して下さい。基地をいったん作られたら後戻りできません。新基地はいらない。日本政府とアメリカ政府が口約束だけで危険な基地をなくさず、新基地をつくることに、沖縄はもう一度県民の意志を示さなければならないのです」「誰に投票したらいいか悩んでいる県民の皆さん、気持ちはわかります」「明日は投票して下さい」と、凛とした叫び。そして会場の共感の熱気。
(それを文字で伝えきれないもどかしさが、本当に悔しい。久しぶりに、暗闇の中でメモする指が震えるのを感じた。)

オナガ氏は、沖縄の心と世界的視野で政治家の責任を問いかけた

オナガ氏の選挙戦最後の演説は、短いながら大きなスケールの内容だ。「今回の選挙は、沖縄の自然、歴史を引き継ぎ、私たちの誇りをもって基地は要らないという大きな志を、アジアの中で発揮できるよう実現させるのが、現在の政治家の責任だ」「21世紀のこれからの子どもたちのために一生懸命がんばらなくてはならない。一緒にがんばりましょう」。
「ウチナンチュウの心」という言葉も出た。聴衆も拍手で応えた。居並ぶテレビカメラの列に向かって意識して問いかけたかはわからないが、彼の言葉と志を“政治家”を自負するすべての者たち、そして“本土(やまと)”の者たちはどう聞いたのか?
(特に取材・報道者は自問しなくてはならないと痛感した。ジャーナリストたる者、たろうとする者の矜持が、ここでも問われているのでは。夜のマスコミ各社のテレビ報道は何を伝えたのか、朝刊は何を書くのか、皆さんに情報を寄せていただきたくお願いしたい。)

基地建設容認に転じた現知事への評価を、タクシー運転手さんから聞く

夜の目がさめるような事象に比べたら、朝から夕方までの選挙支援活動の報告は大した問題ではないが、記録として必要なので記したい。
行動3日目も朝9時から打ち合わせをして地域を分担して法定ビラの「お届け」。ハンドマイクでのアピールも併用した。本日は3人プラス他団体からの1人の4人で数百軒を訪ねたが、集合住宅が多く、階段の登り降りで大変ではあった。傾向としては、一戸建ては反応が良く、民間アパートは留守か関心を示さない人が多かった。
移動に使うタクシーの運転手さんには必ず「選挙情勢は?」と聞いたが、現知事が基地建設へ態度変更したことを「約束破り、裏切りと感じている県民が多い」こと、高齢でありテレビで見る発言姿のおぼつかなさへの懸念があることを共通して語った。沖縄では「約束破り」すれば信頼失墜というモラルがかなり高いということを、彼らの話から理解した。
夜の集結集会へ向けて、市内数か所から「のぼり旗」を林立させながらそれぞれ数百人規模で県庁前まで歩道を移動したが、我々が出発した沖縄セルラースタジアムでは、「入ってもいいですか?」と、小学校前の子ども2人を連れた男性がいた。政策ビラ配布中にも、「私のような1人でも参加できる集合場所を教えて欲しい」と男性に声をかけられたが、県民の意識状況を示す事例ではないかと感じた。

【報告を終えるにあたって】短期間の中でもつかむことができた内容のうち、この報告では裏づけや精査の余裕がなかったため、記載できなかったことが多くある。多少大げさに言うと、価値観や人生観の変更を迫られる内容もあった。頭の中で整理できていないし、いつ整理できるかわからないこともある。でも、ひと言で言うと、現場主義が大切であり、百聞は一見にしかずという先達の言葉の正しさを確認させられた3日間でもあった。明日の日曜日、4日目はどうしようか? パソコンを閉じる前に、まだ悩んでいる。(山田幹夫)

“やくざ”が「東電は許せない」と飛び入り演説!  津田沼革新懇の反改憲・反原発・ブラックなくせ駅頭宣伝に大反響!

5月30日、全国税OBで作る津田沼革新懇が各方面に呼びかけて、津田沼駅北口(千葉県・総武線)での第二回宣伝行動を実施しました。黄色のスカーフを巻き、様々なポスターでにぎやかに飾り、紙芝居が登場したり、ワクワクする演説が続き楽しい宣伝となりました。
参加団体は脱原発船橋(仮)、共産党県議、船橋革新懇、津田沼9条の会、新婦人そして法政Ⅱ部九条の会で計25名が参加しました。
駅頭では「九条って?」と知らない若者に説明する一方、「九条の会に入りたい」と女性が加入するなど対話が弾みました。4月から二回目の駅頭宣伝ですが高校生が「ノーベル平和賞」を持ち帰るなど効果抜群の宣伝行動です。
そんな中、ヤクザっぽい男性が司会者に近づき参加者が「すわ!右翼か?」と心配する中、おじさんは「原発で東電に文句がある」「俺にもしゃべらせろ」と飛び入り演説となりました。「おめぇさん方よ」と語りだすと道行く人々が俄然立ち止り注目が集まりました(この日一番かも)。おじさんは「東電役員の責任逃れは許せない!」と原発事故を招いた東電への怒りを爆発!「そうだ」という声も飛び交い、一気に盛り上がりました。
お疲れ様会で行ったスナックではお店のおねえさんに駅頭で配布した「許すなブラック企業」のビラを見せると、「私は昼も会社で働き、夜はこうしてバイトしているのだけど、うちの会社も給料の遅延はあるは、残業代も出ない時もあるからブラックになるね」と1時間にわたり対話となりました。
今、安倍政権が閣議決定にひた走っています。阻止する力は反対の声を形にすることです。
津田沼革新懇の次回宣伝に駆けつけましょう(6月27日午後5時から6時まで津田沼駅北口)法政大学Ⅱ部九条の会は一緒に参加するとともに下記の集会デモに参加します。
閣議決定で「戦争する国」にするな!「6.17大集会
午後5時30分 日比谷野音 6時30分 銀座コースデモ
5時30分に「カモメの広場」及び「野音会場内」に法政の旗を立ててお待ちします。

東京都知事選で安倍内閣暴走にストップをかけよう!

 

2月9日投票の東京都知事選は安倍内閣の原発推進、解釈改憲などの暴走を食い止める千載一遇のチャンスです。世話人会は1月17日の会合で宇都宮健児さんを当選させるために、①街頭宣伝など選挙応援情報の拡散、②宇都宮さんチラシの配布を決定しました。

同日の会合では、宇都宮健児さんの弁護士仲間である澤藤統一郎氏が自身のブログで前回選挙の選対を批判し、彼に立候補を取りやめるよう連日発表している一方で、澤藤氏の提言に北足立9条の会呼び掛け人でもある中山武敏弁護士らは「私憤に立脚する恣意的な主張」との反論を発表したこと、「週刊新潮」が「日弁連元会長の都知事選立候補に冷水を浴びせた友人」と記事を掲載するに至ってこの問題はネット上からマスコミにまで広がっていることが紹介されました。

また、安倍の暴走をストップさせるために細川護煕氏との一本化の動きがあることも話題となりました。
世話人会では、前記ブログに関する真実はわからず、わだかまりは払拭しきれないという意見がありましたが、選挙勝利へ次の点で一致しました。
(1)民主勢力内の民主主義や情報公開を進めていくべきであり、統一戦線の形成についても議論していくことを前提に、
(2)脱原発や改憲反対を明確にしている宇都宮健児さんの当選をめざしていく。
都民が都知事を選ぶ判断材料提供のための東京青年会議所の公開討論会、日本記者クラブ主催の候補者共同記者会見に出ようとせず、いずれも中止させるに至った自民推薦や元首相と組んだ者たち。政策論戦をしない人物や、政策のほとんどを告示日(1月22日)の前日まで発表しようとしない人物、民主体制と都民を軽視する候補者を、当選させるわけにはいかないのでは。(記・山田)

 

感動的でした! 講演会「現代に生きるケストナー」 

2013年12月21日、エデュカス東京

講師:井筒 満さん(73年日文)

 

 2時間にわたる迫力に満ちた講演に聴衆は時に涙しながら時間を忘れて聴き入りました。井筒さんご自身も二次会で「とても話しやすい講演会だった」と語っておられました。

 講演は「年譜・ケストナーの生活と文学」(文学教育研究者集団)を基に1899年に生まれたエーリッヒ・ケストナーの生い立ちを独帝国敗北、ワイマール憲法成立の時代背景と共に語ることから始まりました。

ケストナーの生きざまを、ナチスの時代背景の中で
子ども時代のケストナー一家が彼の成長を支援してきたこと、青年期にジャーナリストの仲間入りし、児童文学の世界にデビューしたものの、ナチスドイツの台頭により亡命を勧められたが、ドイツに残る決心をして世界に児童文学を発表してきたケストナーが、ナチスの「皆殺し名簿」に掲載され支援者に救われるなど生と死の狭間で生き抜いてきたことを、時代背景と共に語られました。

井筒さんは、1958年にケストナーが語った講演から「1933年から1945年までの出来事は、遅くとも1928年に防止されなければならなかった。自由のための戦いが反逆罪と呼ばれるようになるまで、待ってはなりません。なだれはすべてを埋めてしまった時、はじめて静止します」を引用し、私たちに警鐘を鳴らしてくれました。

ナチス支配下で子どもたちは孤独の中に閉じこもり、力こそ勝利の道と思いこむ青年たちが闊歩していました。

井筒さんは次に「飛ぶ教室」をはじめて聴く人にも分かりやすく説明してくれました。「立って話すと興奮するから座って話します」といいながら学生時代を思い出すような熱弁となっていきました。

「座して許すな」という言葉が印象的

1933年、ヒットラーが首相になった年に書かれた「飛ぶ教室」の前書きでケストナーは学期末となっても帰る家がなく寄宿舎に残らざるを得ない少年に「かしこさをともなわない勇気は乱暴でしかないし、勇気をともなわないかしこさは屁のようなものなんだよ!」と語ります。

井筒さんは奥さんからあなたも学びなさいと言われたと参加者の笑いを誘いながら物語の核心に導き、講演後の質疑では「動物会議」のあらすじを聞かせてほしいという要望に応えてくれました。二つの本はみなさまから子供たちや孫に読んで聞かせていただきたいと思います。

井筒さんが「権威主義に陥ることはファシズムを許容するメンタリティーとなる、取り戻すには笑いの精神が必要だ」と、現代日本の時代状況を「座して許すな」と講演されたのが印象に残りました。(記・山口)

参加者:33名(講師含む)。忘年会:20名(忘年会のみの参加者3名)

 

 

感想文から

時代背景の中で勇気ある作品に感銘 ★素晴らしく感動的なお話しをありがとうございました。子どもはとても世の中に敏感です。今、障害を持った子供たちの支援をしています。小学生の孫ともいろいろ話をしています。このような素敵な教師・生徒の関わりができることは大切ですし、この時代背景の中で勇気ある作品を作り上げたお話しはとても胸にしみました。

ヒトラーの時代と今の日本が重なった ★ 「飛ぶ教室」も「動物会議」もすでに読んでいる本でしたが、井筒さんの「飛ぶ教室」のお話しにおもわず涙が出てしまいました。ヒットラー下のドイツと現在の日本が重なってきますね。やっぱり一人ひとりのメンタリティーがどうであるかが大事ですよね。九条の会で良い企画をこれからもお願いします。

★ 良かった!会は今後も政治改革に向けて奮闘願います。

★ 丁寧な背景説明が非常に良かった。作品論と作家論にもう少し時間が取れれば…。会のみなさん頑張って下さい。

★ 久しぶりの文学講演、良かったです。今、ドイツ語を勉強しているので良かった。会では法律学者にも講演してもらいたい。御用法学者が秘密法に参画しているので、その批判を含めて民主的な学者に!例えば立命館の松宮教授など。

 

現代にケストナーの精神を生かしたい 

★「楽しくても苦労を忘れずに」、アイスラーの「子どもの歌」の出だし。ケストナー達の精神が生きているなー。飛ぶ教室に憧れて大人になりました。でも、そんな大人になれたか…。そんな大人になるよう、これからでも賢く勇気もある大人になりたい。会で池田さんを是非!今日の講演を受けてもっと深まると思います。

★ 子どもたちに伝えたい。子どもへの信頼の思いがケストナーの作品から感じることができました。長年、子どもたちへ本をという読書運動を続けながら児童文学を書いてきましたが、ケストナーを何度となく読んできながら、時代と子どもたちを感じることができました。ありがとうございました。ケストナーの文学の深さをもう一度読みたいですね。地元の九条の会で活動しています。直接テーマではなくこうした講演で訴える力があることを実感しました。

★ 今日の話を聞くまでケストナーについては知りませんでした。ケストナーが育った独国の様子と母親が生きる姿勢から厳しい時代を生き抜いてきたこと、それが今の日本の状況と重なり合って「現代に生きるケストナー」の演題とぴったりでした。また、ケストナーの作品を通して子どもたちに対する姿勢とナチス独国に対する批判精神を感性豊かに述べられて、これについても同感することがありました。

作品で抵抗する作家精神は素晴らしい 

★ワイマール憲法を破壊して出現したナチス第三帝国と日本の平和憲法を破壊しようとする極右政権がもろにシンクロナイズする時代に適切な内容でした。ナチス的な精神、個人感情(人情)の抑圧、人権の破壊といったものに作品で抵抗する作家魂は素晴らしい。

★ 日本語教師を先月までやっていました。その中でヴェトナムの留学生がよく悩みを言いにきました。その時は留学生も私も忙しく、なかなか対応できませんでしたが、これからは(来年の1月から船橋の日本語学校に転勤)“飛ぶ教室”のように生徒の悩みを最後まで聞ける教師になりたいと痛切に思いました。松戸の面川さんが主人公の映画ができました。ぜひ、上映とトークをやってほしいと思う。

作家も作品も知らなかったが、学ぶ機会を得て感謝 ★ ケストナーさんを知らなかった。作品も当然読んだことなし。これから学習することにします。学ぶ機会の提供ありがとうございました。

★ ケストナーという名前を知らなかったが、面白く聴かせてもらった。会には日本の政治体制をよくするための行動をこれからもやっていただきたい(中大Ⅱ部国際経済学科45年入学)。

 

二次会後

★ (忘年会のみ参加で)ケストナーの講演会を聞きたかったです。忘年会の始めのあいさつで井筒さんが加藤豊さんから依頼を受けた時の話をしていましたが……。「何故、大学に文学部があるのか? 文学作品や文学を学び研究することが社会変革に役立つのか? どのように役立っているのか?」。法政文学部に在籍当時から現在まで、そしてこれからも……私の永遠のテーマです。法政時代に「新英米文学研究会」という研究会で「文学作品に対する見方・考え方」をほんの少しだけ学ぶことが出来ました。最近、社会保障にかかわり学ぶ中で、あのディケンズの偉大さを知りました。

 

 

新たな基地NO! 札束攻勢はねのけ大差で
名護市長選挙勝利

「名護市民の「成熟度」が問われます。日本から米軍基地をなくしていく大きな一歩となり、安保条約廃棄への大きな一歩ともなるだろうと、私は思っています。政府も総力をあげて襲いかかっているのが現状です。11日が勝敗を決める。名護市の選挙に参加しよう。平和な世界をつくる行動なのだ! 楽しいぞ、おもしろいぞ!」(中島暁の沖縄レポート6、112日付から)

「稲嶺進さんの“人間力”の勝利でもある」(中島暁氏レポート)

12月から現地に入り、通信を送ってくれていた中島氏からの最後の報告です。<お疲れさまでした。>

 「投票日前日の名護市内の居酒屋は大盛況。異様な雰囲気だった。相手陣営は封筒を持って個別訪問。その反映か。しかしススム氏は勝った。彼は、選挙中も市長になる前からの日課である朝マラソンだけでなく、子どもたちの通学路で交通安全の“旗持ち”も続けた。勝利は、根本的にはそのような人柄と秘めたるエネルギーのたまものだ、人間力の勝利だと私は思っている。大きなお土産を持って帰れることが、嬉しい!」

(報告=名護市長選には会から「統一連」に3万円のカンパを送りました。)

辺野古の海岸のテントが海を見つめ、基地を監視する。

 

名護市辺野古の海岸の横にあるキャンプハンセン。柵には抗議の旗などがたくさん。

 

 

会員の活動紹介

面川隆氏(Ⅱ文・教育1971年)を取り上げた映画

「さようなら、ぼくの先生」

第39回NHK日本賞ノミネート作品(43分、カラー)

副題は「最後の90日」。定年退職直前の様子をカメラが追ったドキュメント。

「いつも本気で、一生懸命で、真剣に生徒(子ども)たちと向き合ってきた“ぼくの先生”がもうすぐ定年退職する。先生は最後の授業で子どもたちに何を教えるのか。地元松戸(千葉県)の小学校を舞台にした、涙あり笑いありのハートフル・ドキュメンタリー」(紹介チラシから)

近日中に上映会を予定。私たちの会でも観る機会が実現できたらと思います

 

 

予告「長時間討議」

 議題:「安倍政権の改憲に反対して 私たちはどう闘うか」

日時:3月8日(土)13:00~17:00

会場:「飯田橋ルノアール」(会議室)

 ……………………………………

 3回目の企画です。異業種交流会的な、全国的にも珍しいと言われる大学OB九条の会の私たちの会のこれからの活動やあり方などについて、自由闊達な意見交換の場です。情勢をにらみながら、講師を招いての勉強などもセットで考えます。

 次回世話人会(227日夜)で内容を具体的に検討します。

 今から予定表に入れておいて下さい。ぜひとも参加を。

 

 

10・13 原発ゼロ統一行動に参加

福島を忘れるな! 再稼働を許すな!

1013 原発ゼロ統一行動に参加

     行動参加後は“懇親会”

 「首都圏反原発連合」主催、「さようなら原発1000万人アクション」「原発をなくす全国連絡会」の3団体共催の「10.13 NO NUKES DAY 原発ゼロ☆統一行動」に参加しました。

日比谷公会堂~巨大デモまでが参加者19000人、国会前大集会までで延べで40000人の参加者が、脱原発・反原発の意志を可視化するべく声をあげました。皆、元気でした。

我がOBメンバーは、日比谷公園から東京電力本社前を経由するデモに2本の目立つ幟り旗を掲げて参加した後、虎ノ門近くのお店で慰労と懇親会。世話人のNさん、Iさん(共にⅡ社)は、国会前のファミリーゾーンへ。

3者共同の行動としては、前回の「 6.2  NO NUKES  DAY」に続くものです。市民や団体が一丸となって反原発脱原発を意思表示する、という試みは、とても重要です。

現在、稼働中の原発はゼロですが、これから各地で原発再稼働のせめぎあいが激しさを増します。原発ゼロへの道筋をつくるため、私たちにできる行動などを進めましょう。

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 Nさん、Iさんが参加した「ファミリーゾーン」では、劇団前進座の紫野明日香さんが司会中。柴野さんはツイッタ―でも情報発信中で、この日は『子どもの笑顔が大好きです。お年寄りの笑顔も大好きです。TPP、憲法改悪、秘密保護法NO!戦争に繋がる事は全てNO! 『パパママぼくの脱原発ウォーク』金曜日の夜は国会前ファミリーエリアにいます。子どもたちを守るため繋がっていこう」と訴えました。

勉強会“韓国民主化運動から学ぶ”を開催

講師に文京洙・立命館大学教授71年Ⅱ部英文科)

「グローバル化の下での韓国政治と市民社会の課題」

 8月31日(土)午後、東京・新宿区内の喫茶店会議室で1971年Ⅱ部英文科入学の文京洙(むん・ぎょんす)立命館大学教授を講師に、韓国民主化運動の勉強会を開催しました。参加者は満席の37人。

 

 

勉強会“韓国民主化運動から学ぶ”

  • 韓国民主化運動の流れを、経済と社会の動きの中で解説

 在学中は「朝鮮問題研究会」でも活動していた文氏は、レジメと共に韓国の産業別賃金水準や大統領選候補者得票数・率、世代間投票率、支持候補比率などのデータも示しながら、韓国民主化運動の足取りを紹介しました。韓国経済成長の流れを見ながらの解説はわかりやすく、また、市民運動の抱えている課題についても率直に語っていただきました。

 

  • 80年代の「光州事件」、民主化運動の大きな転換点

 文氏は、戦後に軍事政権が続いてきた韓国の民主化運動の本格的枠組みができたのが1980年代後半で、80年5月の軍隊の武力鎮圧で多数の犠牲者を出した「光州事件」が大きな転換点になったと強調しました。

 国家・市場・市民社会がそれぞれ独自の原理で存立する近代社会の形ができた時期を「87年体制」と規定されているそうで、市民社会の分野では、光州事件の衝撃を受けて学生中心に「運動圏」と呼ばれる急進的社会運動が、民族派と階級(闘争)派を内包しながら全盛となり、経済社会の面では景気上昇の波に乗って伝統的な農村社会から中産層中心の都市型社会へと社会基盤が変貌していったと、文氏は分析しました。

 

  • 90年代、様ざまな分野で市民運動が活発化

 90年代になると、金泳三政権の下に自由化圧力に直面する中で競争国家体制に移行し、学生運動が野党や一般市民の支持が得られずに孤立化する一方、環境・教育・福祉・女性など個別分野での新しい市民運動が活性化。権力と市場の監視、異議申し立てによる民主化が進みました。

注目すべきは市民立法で、「国民基礎生活保障法」が制定され、「小額株主運動」や、日本でも反響を呼んだ「落薦・落選運動」が展開されるなど、市民運動が活発に展開されました。

 

  • 進歩的政権の誕生により、市民運動が危機に

 金大中(1998~2002年)、盧泰愚(2003~2007年)の進歩派政権の登場と共に市民運動が危機を迎え衰退した原因を、文氏は「たたかう相手がいなくなった」と表現しました。社会の土台部分では、中産層中心の安定した社会(家族・コミュニティ)が崩壊したこと、大卒の就職難や1人家族・2人家族の急増が指摘されました。

 市民運動も抵抗型運動から変化し、自治体改革や草の根運動が重視され、村おこし・まちづくりの地域民主主義が重視されるようになりました。

 典型のひとつとして、ソウル麻浦(マポ)区の「参加」「協働」「疎通」「自発性」をふまえた既存の概念を超えた(オルタナティブな)まちづくりを、文氏は紹介しました。

 この試みも国家情報院の圧力で挫折し、グローバル金融資本のエージェント、権威主義的な政治手法を復活させる李明博政権の登場に対して、再び異議申し立て型運動が沸き起こり、「蝋燭デモ」(2008年、米国産牛肉輸入再開反対に端を発した約100日間の夕刻のデモ)が展開されました。

 

  • 進歩勢力の再結集には、世代対立を超えた新しい価値観が必要

 保守政権である李明博政権内政と南北統一政策の失敗や親族の不正を受けた今年の韓国大統領選挙でしたが、進歩勢力の敗因として文氏は、「候補単一化神話」があったことと、韓国の団塊世代である40代と50代以上との世代間対立を挙げました。かつての民主化を担った50代の63%が右派の朴槿恵(パク・クンヘ)を支持しており、進歩派の分裂があったと指摘しました。

 進歩派の課題について文氏は、民主化勢力の再結集には排除の政治への抵抗へ、新しい価値観、検討課題や行動計画(アジェンダ)の提起が重要であると強調し、講義を終えました。

 

 

質疑から

 大統領選にアメリカが介入? Q=M氏(日朝協会)/2002年、盧武鉉大統領当選の前日、アメリカが介入したのではないかと思われるが、どう見ていますか。

A=文京洙教授

 統一神話はこの時生まれた。支持率第二位の盧武鉉候補と第三位の「国民統合21」が盧武鉉候補に一本化したが投票日直前、「国民統合21」が指示を撤回し、投票日当日出口調査報道に危機を抱いた盧武鉉陣営はメールで「盧武鉉に入れよう」と呼び掛けて僅差で勝利した。

 2012年の大統領選挙でも文在寅候補と安哲秀候補が文在寅で一本化した。しかし、投票日当日の出口調査で文在寅候補が朴槿恵候補に勝っているとの報道に反発した人が投票に行き、朴槿恵候補が当選した。

 なお、盧武鉉大統領は、ぎくしゃくはしたが親米派でもあった。新自由主義政策を推進もした。

 

済州島の基地や原発問題は? Q=T氏(65年入学)/四・三慰霊祭で団長として歌ってきました。 済州島江汀(カンジョン)村での海軍基地建設をどう考えていますか。原発はどうなっているのでしょうか。

A=文京洙教授

  四・三事件は島の共同体を外から潰していく事件だった。基地建設では村長が買収されたりするなどコミュニティを内部から崩壊させている。基地問題は難しい。「平和の島」を宣言した済州島だが、四・三事件が屈折した形で表れている。

 原発は全土で23基ある。朝鮮戦争後、アメリカの後押しで建設が進んだ。韓国は今でも停電が起きるほど電力不足が続いている。一方、原発が原因か、甲状腺がん患者が多く反対運動が起きている。今、核廃棄物処理場(核再利用支援)でせめぎ合っている。去年から今年にかけて、日本の活動家が交流で訪れている。

 

労働運動の現状は? Q=M氏/秋田博司さんと一緒に来た。労働運動の現状と今後をお聞きしたい。

A=文京洙教授

 労働組合の組織率は10%ぐらいと落ちている。若者が加入せず衰退してきている。非正規労働者が六割近くと問題となっているがなかなか対処できていない。産別労組の運動の方が盛り上がっており、社会的アピール力を強めようとしている。民主労働党の分裂原因は北朝鮮の核実験をめぐり、北朝鮮に近く賛成する「民族派」と反対する「階級派」に意見が分かれたことにある。

 

祖国への思いは? Q=K氏(69年入学Ⅱ社)/李恢成(りかいせい)の『見果てぬ夢』を読み、息詰まる韓国社会を知ったが、文京洙教授は祖国へどんな思いを持ってらっしゃったのでしょうか。

A=文京洙教授

 青年時代は民族とか祖国という感覚が強かった。私の両親は済州島出身者で済州島出身者が多い東京・三河島で育った。朝鮮人ばかりの中で日本人を知らずに育ち、小中高と朝鮮学校で学んだ。自分は在日のイメージと違い肩肘張ることはなく育った。大学に入学して民族に目覚めたといえます。朝文研に属して韓国の民主化を考えていた。弾圧されている韓国の学生に自責感があった。

 自宅では日本語を話していた。両親はたまに朝鮮語を使っていた。父はビニールの袋作りやパチンコの景品買いなどで生計を立てていた。94年に立命館に単身で赴任した。2008年に初めて在日が韓国の選挙権をもった(国政選挙だけ)。日韓の友好が高まり、日本が加害者意識を共有されたのは95年の村山談話が頂点だった。底辺では変わっていないが今は在特会等の活動に見られるように最悪の時だ。歴史認識だけでなくグローバル化という課題の共有化が必要ではないだろうか。

 朝文研は多くの大学では朝鮮人だけの研究会だったが、法政Ⅱ部だけは日本人も加わり、湯川教授が顧問だった。あまり肩肘張らずにやれ、社会的に目覚めることになる。大学院で韓国の政治を学ぶ時、法政の四年間が生きた。

 

韓国の投票日は休日になり投票率は? Q=U氏(67年入学Ⅱ社)/韓国では投票日当日が休日になると聞いていますが、投票率につながっていますか。日本の運動についてどう見ていますか。

A=文京洙教授

 投票率はだんだん下がっているが、日本よりはましだ。19歳から選挙権があるものの若者の投票率が低い。三八六世代の50代が盧武鉉をどう見るかで分裂しているが、克服してもう一度結束して欲しい。

 反原発運動など街頭に出ることが意思表示として大事だと思う。投票と投票の間でどういう意思表示をするかが大事だということ。

 「ろうそくデモ」には、今では反発もある。日本でも在特会(在日特権を許さない市民の会)が発足時500人だったのが1万人を超えて、卑劣なデモをしている。子育てしている女性から 「怖い」 との声が上がっている。

 ジェンダー問題で女性車両を作れという声があがると、「男性車両」を作れという反発も起きている。

 

韓国の非正規労働者は? Q=H氏(70年入学Ⅱ経)/派遣労働者の問題をどう見ていますか。私はホットスポットに住んでいいて、とても不安、その意識で韓国の方と仲良くなれるかな。

A=文京洙教授

 非正規率は30%から40%ではないか。日本も韓国も就職・結婚・子育てという人生が特権階級のものになろうとしている。大学進学率が80%を超えているが正規職に就職できないのが現実となっている。

カラスも飛ばない町 =フクシマ避難「解除」地域=

       72年社会学部 井上澄枝

8月25・26日地元練馬区の後援会の「福島に連帯する旅」旅行会に参加しました。 総勢200人・バス5台。

1日目は鶴ヶ城見学と夜の交流会。板橋区の後援会も同じホテルになり総勢400人を超えています。会場は美味しい食事と各後援会の出し物に拍手喝采でしたが、一番は東京から駆けつけた吉良よし子さんの連帯の挨拶!選挙中東京の各地で勝手連が行った「きらきらコ-ル」が会場いっぱいに響き渡りました。

翌日は福島第一原発から30キロ圏内のいわき市広野町から、現地ガイドの半沢(元高校教師・いわき訴訟団原告)さん達が同乗して富岡駅までガイドをして下さいました。

「皆さんここは避難解除地域ですがカラスさえも生息しません。町人が2割ほどしか戻らず、カラスの餌が無いからです。ほんとに時間が止まった町です。事故後、一番最初に来たのは泥棒でした。それから野生動物が家に入りこみ、2年5ヶ月も放置された家々は外見はある程度保っていますが中はぐちゃぐちゃでそんな状況を見ると気持ちが萎えてしまうんです。」また避難してきた人達と住民の間に軋轢が生じています。第一原発からの距離で分断され、放射線量で分断され、賠償で分断され更に津波の被災と原発の被災との対応の違いから対立が持ち込まれていると話します。

車窓から見える黒い瓦礫の山・置き場と言っても元は田んぼです。除染した瓦礫が黒い容器に入れられ野積されています。除染の範囲は家の周り20mと田んぼ しかしその田んぼは作付されずに瓦礫置き場になっていて増え続けています。除染を盾にして賠償金の戦いが今後も続くのです。

バスは常磐線竜田駅から更に富岡駅へと進みます。草ぼうぼうの線路。持参の線量計は富岡駅の草むらで3・9マイクロシーベルト/時 あちこちからオオォォォ-・・・という声が上がります。駅舎は津波で跡形もなく、駅前商店はあの日のまま荒れ朽ちています。美容室の大きな時計が2時46分を指したままぶら下がり、駅に置きさりになった通勤用の自転車はそこに日常があったと教えてくれます。

家族が分断され働けず将来の見通しも持てず15万人もまだ避難している。この間の東電との折衝に先頭に立って命を張ってきた人達が今年の3月11日に国と東電に提訴。共産党元県議の伊東達也さんをはじめ822名が「元の生活をかえせ・いわき市民訴訟」として原発事故の完全賠償をさせるために立ち上がっています。福島第一原発は今も危険な状態でストロンチウムを含む汚染水が漏れている。福島だけの危機でなく日本と世界の危機!原発の輸出など正気の沙汰では有りません。

車内では、子どもの甲状腺がんの事、除染費用は20兆とも30兆とも莫大でとてつもない費用ですが、昨今はしきりに除染でなく別な道を模索したら・・・との声に被災者の立場に立つとどうなのか?今福島の原発のある市町村の財政は破産寸前です。交付金の恐ろしいのは別の産業を作らなくても依存し成り立ってきた事でした。第二の夕張市は目前です!・・・・との話がありました。

私達は歴史に学ぶことを!どんな選択にしても人の命が最優先でなければなりません。晴れた福島の空と海と緑がとっても綺麗でした。短時間の交流でしたが良い旅になったと思います。

4・14アーサー・ビナードさん講演会 204人参加

うなずき 笑いながら… 刺激を受けた2時間30分

4月14日午後、OB九条の会3周年記念、アーサー・ビナードさん講演会を開催しました。題して「最高の憲法と最低の政治の、不思議の国ニッポン」。参加者は20代から80代まで204人でした。

外国人から教えられた「豊かな表現力の日本語」
と、「ウソとペテンの言葉の本質を見抜く視点」

★ウソとペテンにだまされていませんか? 
 アーサーさんの話は痛快で面白く、アメリカ生まれ、イタリアで学び日本で生活している詩人としての感性と精神・論理構造に参加者は圧倒され続けでした。
 「彼は只者ではない」という参加者の感想の裏返しとして、日本にいる私たちの視点や感覚や行動が問われる刺激的な講演会になりました。
 「日本語は、表現できる可能性が素晴らしい言語」であることと、「20世紀最高の奇跡の日本国憲法」という言葉が何度も強調されました。日本語を母国語としているはずの参加者ですが、共感とショックの中で反省と奮起すべき気持ちを随所で噛みしめさせられました。
★「イタリアでは、読者が新聞にだまされることはない」のに、日本では…
 耳が痛いことが次々と語られました。イタリア語を学んだ時のことでは「イタリアの新聞で、読者がだまされることはない」「おかげで奥にある本質は何だろうと考えることができた」と、マスコミ報道に左右されがちな日本の民度をグサリと突かれました。
 23歳の時に来日し、イラクのクウェート侵攻、湾岸戦争となった時期で日本国憲法は知らなかったものの、アメリカでは憲法の論議はないのに日本では新聞に憲法の活字が出ていること、憲法が戦争や派兵の歯止めや制約になるということを知った時の新鮮な驚きが話されました。
 ★デモクラシー=民主主義は誤訳。正確な意味は「民主体制」
 アーサーさんから会場内に出されたクイズは「デモクラシーの意味は?」。いぶかしげに「民主主義でしょう」という声にすかさず「誤訳です」。「資本主義、社会主義、共産主義と同じように訳されて信じこまされていますが、主義は○○イズムといいます」「正解は民主体制です」と、思想的なことではなく現実の社会の姿のことであるとズバリ。
 ★イタリアの絵本から「戦争は勃発しないが、平和はすぐに実現できる」
 会場内が一段と大きく沸いたのは、イタリア児童文学のジャンニ・ロダーニの絵本『キンコンカン戦争』(講談社。アーサー・ビナード訳)の紹介で飛び出した日本語辞書にある「勃発」と「勃起」の単語。後者は日本語を学びはじめた時の余談ですが、戦争は事業であり、儲ける人がおり、武器を作っておかないと始められないから、いきなり「勃発」はしないこと。しかし「平和は元手がいらない。争いを“やめい!”と言えばすぐに実現する」。ここでも場内は大きくうなずきました。
★平和の反対語は戦争ではなく「ペテン」
 そしてまたクイズ。「平和の反対語は?」。答えがすぐに出ず沈黙の参加者に「戦争ではなく、ペテン」と、また場内は、してやられてしまいました。
 「近代以降の戦争の本質は(政権側の)PRであり、サギだ」という解説に続く、「ペテン、サギの視点で見なければ、世界はわからない」「戦争を止めよう、平和運動をやろうとしたら、ペテンを見抜くことからやらないと負けます」という指摘に耳が痛くなった参加者は少なくなかったようで、共感の拍手が大きく響きました。
 ★「奇跡の日本国憲法」を活用しよう、のアピールに大きな拍手
 「戦争のPRに負けないためには、言葉の可能性を広げることが詩人の役割」と噛みしめるように語り、参加者には「戦争のPRに負けないための道具はある」として、「表現できる素晴らしい言語である日本語」と「20世紀最高の奇跡の日本国憲法」の活用を語りかけると、また大きな拍手が巻き起こりました。
★TPPで日本語が絶滅危惧種になる   ことも解き明かされた
 TPP(環太平洋パートナーシップ協定)についても明快で、「自由貿易の名で日本の乗っ取り」「日本語の『自治』が死語となり、次に日本語が絶滅危惧種、関税障壁になっていきます」と警鐘を鳴らしました。
 ここでもクイズ。「トロイの木馬は何でできているでしょうか?」。「木製…」の声にすかさず「木は外側の部材で、腹の中は殺し屋。それが中身、本質です」と、TPPも本質をえぐって正しく理解することを強調しました。
ビナードさんは質問にも丁寧に答え、休憩をはさんでの2時間半でも足りない密度濃い講演会でした。
 
会場アンケート、感想文から

 *「ペテンタゴン」という言い回しが良かった/以前、朝日ニュースターの番組「ニュースにだまされるな」でゲスト出演していた時に拝見して、一度講演で話を聞いてみたいと思っていましたが、イメージ通り面白いおしゃべりで引き込まれてしまい、とても楽しかったです。中でも「ペテンタゴン」という言い回しがとても面白かったです。
*井上ひさし氏のフレーズを思い出した/ビナードさん講演会200名突破、大成功でしたね。これくらいの人が集まると元気が出ます。時間がたつのがあっという間で、井上ひさしの「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことはあくまでもゆかいに」というフレーズを思い起こさせます。
ビナードさんの話を何回か聞いたというイトコも今回の話が一番良かったと言っていました。
著書本の販売もおかげさまで好調で、98冊販売することができました。送料を差し引くといささかの利益で、山分けには程遠い金額ですので、そのぶん会報の制作・印刷などでお手伝いさせていただければと考えております。ありがとうございました。(T.M)

 *「脱だまされない」を決意/とてもわかりやすく、かつ姿勢を正される内容でした。だまされないためには学ばねばいけない。学びの場、知る場は自分で見つけなければいけない。最近、インターネットおたく気味になっている自分ですが、これも必要とOKされた気持ちになりました。

 *日本人より日本人らしいと感動した/地域の人にも呼びかけ10人が来てくれた。甲骨文字の望月先生が「初めてしっかり聞いて、日本人より日本人らしい」と喜んでくれてうれしかった。

 *感動し、危機を痛感。できることをやります/このままたたかわなければ日本語が滅びるなんて考えもしませんでした。日本国憲法が奇跡の中でできたということも感動しました。何もしなかったら9条そのものが危ないとひしひしと感じます。私にできるささやかな活動をしていこうと思います。

*福島から避難。アーサーさんの国の原発政策批判に感謝/私は福島から子どもをこの2年間、4回避難させ、いま東京で一緒に住んでいます。アーサーさんが福島原発の件について、国が(県民、国民を)捨てていると言われたことは、私も納得しています。これを声を大にして話して下さっていること、感謝します。

*彼のように屈しない姿勢で生きようと思う/原発に反対です。TTPにも反対です。原発に至ってはチェルノブイリ事故が起きた時から反対しています。正確には事故が起こる前から反対していたと思います。原爆投下以降は日本人なら核の怖さは何かしら知らされています。チェルノブイリ事故数日後TVで放射能を含んだ雨が日本にも降るとニュースで言っていました。当時中学1年生だった私は部活動で毎日5キロのランニングが課せられていました。多少の雨ならばランニングが中止になることはないので、台風のような激しい雨なら走らずにすむのにと考えていました。ですが、その日は小雨で部活の仲間も皆走りたくないと言っていましたが先輩も走るし仕方ないと何も言わず走ったのを憶えています。
 私は今の都会の生活でも、できる限り地球に負担をかけないよう、一般に言われている“エコ”の努力はしています。しかし、自分の周りにはそうじゃない人たちもいます。
 ビナードさんの講演を聴いて中学生の時、何も言えず五キロ走った自分と今も何も言わない自分…26年間も変わらず何してるんだろうと思いました。アリメカ人であるビナートさんは日本語を愛し日本を愛し将来は広島に骨を埋めるだろうと言っていました。人類歴史上類をみない放射能汚染された日本に外国人である彼が日本の存続を危惧し戦っている姿を目の当たりにして、彼と彼を魅了した日本を築き上げてきた日本の先人方に感謝の気持ちと自分の不甲斐なさでいっぱいになりました。 (4面に続く)
 人間の経済活動が地球の破滅へ追いやっているのに、見過ごしているのはどうしてなのだろうと、一握りの人間たちの利益の追及のために地球上全てのものが犠牲になる、その一握りの人たちは自分たちの子供たちのことは考えてないのでしょうか? ゲームを楽しんでいるだけとしか思えません。
 彼らの巧みな情報操作に騙されず目を養い、ビナートさんを見習うのは大変かと思いましたが、彼のように屈しない姿勢で生きようと思いました。

(壇上の看板は、のぼり旗の文字もお願いした書家、望月翠山氏の直筆。望月さんには招待席で参加していただきました。)

◆共催「松田さんを支える会」松田恒彦さんからメッセージ
 「テレビで国民の50数%が改憲に賛成、反対は40数%と言っていました。最低の政治屋より、おろかな国民を見せられた感がして絶望感めいた気がしないでもなかった。でも今日のような草の根の運動の広がりは希望です。
私は43年前の1970年1月21日に『法大全共闘』を名乗る暴力学生たちによって生涯に残る後遺症を負わされました。相手の存在を認めない問答無用とも言うべき最大の暴力である戦争を許さないためにも日本国憲法第九条の改悪を阻止しなければと思っています。大学OBの九条の会が今日のようなビナードさんの講演会を開催することを嬉しく思っています。会の盛会を確信し、高知の地から挨拶を送ります。

*九条の会・紹介***・・・・・法政大学Ⅱ部OB九条の会

 九条の会東京連絡会の隔月刊の冊子「生きいき憲法」10月号に掲載されたものです。
 私たちは暴力反対、日本国憲法9条の精神を世界に広げるために「九条の会」を結成したのです。

「いま官邸前。少し涼しくなりました。来られた方は声をかけて下さい」--金曜の夕方、携帯にメールが届きます。
 各々ができることをやり、仲間を誘う、そのような実践スタイルをモットーとしています。

●学生時代の繋がりで
 職場でもなく、地域でもない学生時代のつながりを活かしてゆるやかな「九条の会」、それが私たちの「法政大学Ⅱ部九条の会(OB)」です。
「数ある九条の会の一つとして暴力で物事を解決させないために、そして日本国憲法第九条の精神を世界に広げるために」(結成趣旨から)。
 “団塊世代”が中心ですが、上は70歳前後から50代まで、少しずつ増え、結成2年余で3ケタになっています。

●「反戦平和、暴力反対」!
 私たちが学生だった1960年代から70年代は、東大闘争だけでなく私学でも学園民主化の運動が広がっていました。クラスやゼミ、サークル等から教育制度改悪反対、反戦平和を求めてベトナム反戦運動や安保条約に反対する行動に、学生自治会の呼びかけで行動していました。
 一方、暴力で主張を通そうとする「全共闘」が新左翼と呼ばれる暴力集団と一体になって、学生を襲うということも日常化していました(筆者もクラス討論で暴力反対を口にしたことから集団のテロにあっています)。
 重体になり死線をさまよう大怪我をした学友を、それ以来支える活動を続けていますが、その40年の集いの2010年4月、百人を超す参加者の賛同で、この会が発足しました。

●団塊世代よ、死ぬ前に闘え
 メンバーの多くが“あうん”の呼吸で胸に納めている言葉が大原社会問題研究所・元所長の五十嵐仁氏のブログ『転成仁語』に載った言葉「団塊世代よ、死ぬ前に闘え」です。
 既に職場や地域などで九条の会などの活動をしているメンバーが多い一方で、運動に参加する機会を持たない者も結構いることも現実です。そういうことから、「屋上屋を架す」ことのない活動のあり方を常に考えながら、歩みを進めています。

●救援要請で被災地支援も
 東日本大震災では、郷里に戻った学友の一人、岩手県の医療関係の労働組合役員からの救援要請に敏感に反応し、早速カンパでガスタービン式の発電機を送りました。
 支援物資を職場で集め、トラックを徹夜で運転して現地に運ぶ者を筆頭に、カンパでワゴン車数台に物資と人員を積み込んで5月、8月、12月と岩手の大船渡市と陸前高田市に派遣し、現在も自分の地域で必要な物資を集めて送り続ける者ありです。
 職業も様々で各分野の専門家も揃っているため、ネットワークを駆使し、その気になれば何でもできそうです。心意気とやる気は、年齢と体力のハンディに負けないようです。

●原発も命の観点から「×」
 原発に対しても、50基以上の存在になるまで放置してきた反省が言葉として出てきます。
「原発いらない、命が大事。子どもを守れ」に賛同です。
 平和のうちに生きる権利とは生命第一の思想ですから、九条そのものでしょう。
 集会・デモには子どもや孫と一緒に参加するメンバーも。
 大学で学んだことを現実に活かしていくことを、改めて心に刻み、楽しく交流していきたいと考えているところです。

写真=大学がある懐かしいJR飯田橋駅頭で宣伝と署名活動も

(文責・山田幹夫)

8/10首相官邸・国会前抗議行動、参加しました

安藤です。8/10首相官邸・国会前抗議行動、参加しました。

霞ヶ関駅4番出口はエスカレーターが無く、しんどいので永田町駅から行って見ました。地上に出てみれば早速警官のお出迎え、国会の向かい側、議員会館前の通りですが、官邸までは行けない、との説明、途中で国会側に渡れる、とのことでしたが、やはりというか止められてしまい、引き返せということになりましたが、私同様の説明を受けてきた方が4人ほどいたので、押し問答の結果、機動隊小隊長ドノの先導で集合場所まで「案内」していただきました。空いていたこともありましたからでしょうか。

規制は厳しくなっていることは感じていますが、警官の言葉遣いなどは昔と違って丁寧であり、警備の警官には個人的にはどう思っているのか聞いてみたい気もしました。まぁ答えないでしょうが。

霞ヶ関駅4番と3番出口の間に陣取り、国会記者会館の外壁に寄りかかれたのでポジションとしては楽でした。すぐ側で車椅子のオバサンが「明日は無い、明日は無い、原発に明日は無い」と替え歌で歌っているのに合わせてタンバリンを叩いていました。この方は他にも作っていて、周辺の皆さんと一緒に合唱しました。

そこで皆さんにお願いです。どなたか、誰でも知っているメロディで歌詞を作っていただけませんか。シュプレヒコールもありですが、カラオケ大会も有効だと思います。歌詞カードなど作っていただけるとありがたいです。

今週から来週は夏休みということで帰省や旅行の方もおられると思います。その方たちは十分鋭気を養ってください。

在京の方は、ぜひとも17日にお出でください。ちょっと人数が落ちたのが気にかかります。暑い日が続きますが、夕方は都心の方が涼しいです。皇居という大緑地を抱えているせいでしょうか。コンクリートマンションの林立している我が高島平より涼しかったです。シツコク抗議行動を!