岩手・大船渡市、陸前高田市へのボランティア報告(2011.12.23~25)

◆岩手・大船渡市、陸前高田市へのボランティア(2011.12.23~25)報告

今回も法政大学OBの九条の会の皆さまから援助金をいただき、岩手県へボランティアに行ってきました。今回は男女4人。車で往復し、大船渡市の被災を免れた民宿と一関市内のビジネスホテルに各1泊しました。以下に私の報告を記します。少し長くなっていますが、時間がある時にお読みいただければ幸いです。(1970年Ⅱ社入学・山田幹夫)

【お餅と干し柿、花壇にツルハシ、そして白い鳥】

春(5月)、夏(8月)に続いて3度目の岩手行き。被災地の状況と人々の変化が、行くたびに印象的に脳裏に焼きつく。1回目は日本ジャーナリスト会議の機関紙「ジャーナリスト」に写真付きのレポート、様々な支援物資を寄せてくれた地元マンションの皆さんへの報告文など、数本をすぐに書けたものの、2回目、3回目となるにつれ、報告をまとめる筆運びが確実に遅くなってきた。体験をしたこともない凄まじい状況を見て感じたことを誰に何を伝えるのか自問自答と自己葛藤が続く。多少のPTSDもあるのか、自身のこれまでの報道関係の仕事のあり方、これからの行き方など、頭の中をぐるぐる回っている感覚が抜けていかず、じれったい(ということで、報告が遅くなりました。言い訳ですが…)。

お餅を40軒に配布するお手伝いに陸前高田市へ

初日は東北自動車道の一関インターから後輩(Ⅱ経)の鈴木氏の自宅に寄って、各所から送られてきた支援物資など彼の車に積めない分を載せ、陸前高田市の海岸から離れた矢作地区の公民館へ。鈴木氏が寄せられたカンパの残りでお餅をついてもらい40軒分を用意し、私たちがきな粉とゆであずきの缶詰を同数持参。途中、餅をついてもらった野菜などの直売店で大量のネギと、鈴木氏の実家からこれも大量のリンゴを配布用にいただく。

鈴木氏が3月以来通っているこの地域は、海岸からは離れているものの、川を逆上って大津波がなぎ倒した千本松原の松を大量に運んできた所。多くの家が1階部分をやられたものの、建物そのものは残っているため公的な避難場所には入れず、支援物資ももらえなかったという。救援に出かけてたまたま通りかかった鈴木氏が声をかけて状況を聞いたことから彼のボランティア運び屋さんがスタートした経過がある。私は彼と彼の家族は立派だと思う。一緒に作業してきたパートナー(旧姓・磯貝さん)も娘さんも素敵だ。このことは記録しておかなければと思う。

物資は充足してきた。しかし、世帯ごとに差はあるようだ

公民館では机にずらりと並べたお餅などを集まった皆さんに持っていってもらう。ふと、「缶詰にしたが、缶切りはあるのだろうか?」と気になったが、3月のあの日から10カ月近く経ち、日常に使う用品はほとんど揃ってきたと聞いて安堵。各地の皆さんからの衣類や食器、食品などの物資類も並べ、必要な人に持っていってもらう。「揃ってきた」というものの、さまざまな物を手にする人たちの顔を後ろに下がって見ていると、本当に充足してきているのか、世帯によってかなりの差があるように感じる。

現地は寒い。午後4時半を過ぎると急速に暗くなる。公民館の床もジッとしているとつらくなるほど冷たい。小雪が舞いはじめた中、三々五々集まり、机を出したり並べたりする人たちは、ほぼ全員が中年以上の女性。若い女性は生後半年の赤ちゃんがいるという一人だけ。生後6カ月まで仕様の粉ミルクがなかったのが残念だった。

集まってきた人たちとは多少の世間話しかできない。鈴木氏の家に寄ってコーヒーをごちそうになりながら状況を聞くと、近くにコンビニやスーパーマーケットも開店し、買い物は少しできるようになり、衣類を中心とした支援物資はボランティアからの提供が続いてきたので、モノの不足感はなくなっているそうだが、多くの人が職場と現金収入の仕事を失っていること、まだ行方不明の人もいる中、先行きの不安は重く横たわっているとか。私たちは当然だが、10数回通っている鈴木氏でもまだまだ「よそ者」ということで、心底腹を割っての話は簡単ではないと言う。

大地震と津波で港と市街地が全滅し、漁船から始まる漁港、魚市場、魚などの加工、運搬、販売などの全てと商店街や農地などが消えてしまい、それに関連する仕事の回復がすぐには望めないことから、多少の貯金や支援金があったとしても、お金を使う気持ちには不安がある。各種の調味料や野菜、レトルト食品などを見れば欲しくなる。買う場所も少しできたが、もらえることは有り難い。その一方で「支援は助かる。でも、人さまから恵んでもらっての生活は…」という忸怩たる心境にいる人たちがほとんどだろうという鈴木氏の話を聞くと、感謝の気持ちをポツリポツリと言われても、「いいんですよ。気にしないで。また来ますよ」という言葉を吐き出すので精一杯だった。

女性たちのまとめ役らしい一人が菓子箱を持ってきた。中にはぎっしりと大きな干し柿が詰まっている。鈴木氏が皆さんでと言うので、4人で分けていただいた。思わぬお返しが、無性にうれしかった(これがまた美味しかった)。

鈴木氏の知り合いの関係で近隣に病院を建設する話がある。スタッフとして働く希望がないか、鈴木氏が連絡用に自分の名刺を配ろうとしたが、手を上げてもらう人は少ない。が、片付け作業の最中、机の上にまとめて置いてある名刺がさりげなくなくなっていく。多少複雑な雰囲気があるようなことが理解できた。

定置網を設置しなおすには億単位のお金が必要と聞いてびっくり

初日の宿は、これまで全労連などの災害対策連が支援センターとして使用していた大船渡市のはずれにあるあずま荘。冬場になり組織的なボランティア活動が休止しているため、一般のお客さんが少し来ている。夕食に少しだけどお刺し身が出た。鈴木氏が宿の親父さんに「刺し身が出せるようになったんだ!」と言うと、彼はうれしそうな顔になった。地元でとれたものでないのは一目瞭然だが、釣り宿としての気持ちがうかがえる。

民宿のある崎浜地区も漁港と集落の家屋の多くを破壊された。夏に見た漁港の堤防の外にポツンと設置されていた定置網のことを聞くと、村で設置していた定置網の再建はこれからになるが、1セットに億単位の費用が必要という。沿岸漁業の実情の一端を少し勉強した。釣り客の常連さんから少しずつ問い合わせがあるそうで、3隻の船を失ったものの1隻入手の見通しがついたとか。少しずつ再起をはじめている様子に、素晴らしい景観と豊かな自然の中での人々の歩みを、これからも機会をつくって見に来たいと思った。

海と町を見渡す丘を花壇に。壮大なアイデアに共感

2日目は電話で申し込んであった陸前高田市のボランティアセンターへ。9時半過ぎに車で敷地内に入る時、何人かが手を振って迎えてくれた。もう大勢が動き出している。受け付ける方も参加する方も、地元以外のメンバーがほとんどで、若者が目立つ。「仕事」をもらって説明を受け、どんどん出掛けていく。気持ちは若い団塊世代の我が4人組も負けずにという意気込みでもらった仕事は「花壇作り」。少し緊迫感がないなと思ったものの、持っていく道具は「剣先(スコップ)とツルハシ、バケツ」に「?」。

海の近くの市街地(だった場所)の北側、津波が襲った境界線あたりを目指すものの、一面ずーっとが建物の土台が残る平原のため、カーナビを頼りにしたものの目印がなく、行き過ぎた。

陸前高田市の旧市街地は、当初の凄まじい建物の破壊状況から片付けだけは進み、作業のトラックなどが埃をあげて行き交う。津波に耐えた1本松も遠くから見ることができるほど「何も無い」。ポランティア作業の現地は少し丘になっていて、海と市街地(の跡地)を見渡せる立地。風が寒い。流された動物病院に土地を貸していた方が周辺の200坪を提供して広大な花壇を計画している。丘に立つと、ここが花壇になればどれだけ市民を励ますことになるか、そのイメージが沸いて、とても良い発想に感心する。

土地提供者は吉田正子さん。ガーデニング専門誌などで取り上げられており、スイスの専門家ともタイアップし、花の苗の業界などからも支援を得て壮大な事業を展開中。既に数カ月、数百人のボランティアが参加してきているが、花壇はまだ半分にもならない。

「ツルハシ」初体験。若者たちと土と格闘、花壇をすこし完成させた

  ツルハシが必要なことはすぐに分かった。斜面を削って平らにし、耕して花の苗を植えると書くと簡単だが、貝殻だけでなく大きな石や瓦やガラスのカケラも混じった土は、想像以上に手ごわい。ツルハシを振り下ろしスコップを体重をかけて足で押し込むの連続。単に怪力を発揮すればいいのではないというコツも会得できた。大きな石に当たると跳ね返る。腰がすぐ痛くなるが、20人ほどの男女の誰にも辛そうな顔がない。泥や土砂を除くだけの作業より、掘り起こして植えるという創造的な作業になるので、どことなく楽しい(結構、つらいものがあるのは事実だが)。6~7人で数時間かけてできた花壇は1メートル×7~8メートル程度が2カ所。ほんの少しの体験だが、開拓や開墾という作業がどれだけ大変だったか、やって見なければ理解できないままで人生が終わるところだった。ビオラと葉牡丹をそれぞれのセンスで競って並べ植えたが、それぞれの性格が出るようで面白かった。

花壇全体の完成はいつになるのかわからないが、できあがった姿を見る価値はありそう。吉田さんは、葉牡丹を鹿が食べてしまうこともあると言う。自分たちが植えた苗が成長するか心配になる。こんな作業でした。皆でまた行きませんか?

花壇作りへ私財提供の吉田さんも、津波で危ういところだった

女性陣2人は、昼食休憩などの際に吉田さんとあれこれ仲良く話している。年齢が近いという条件はこんな時に優位かなと思う。年の功はダテではない。3月からの写真がたくさんのアルバムになっていて、これまでの様子がよくわかる。大地震後に高台に避難した吉田さん夫婦は、彼女のもっと上へという判断で移動したおかげで命拾いしたとか。冷静な判断と躊躇のない行動が重要なこと、特に生死にかかわる極限状況ではそのことがものをいうことを、吉田さんの体験からも教えてもらった。私財を提供して連日作業を続ける吉田さんと、その意気に感じてさまざまに協力している様々な分野の人たちの事業が花開くことを心底願いたい。

花壇作りのお手伝いを終えて夕方、50キロ以上離れた一関市の鈴木氏宅へ向かう時、前日に行った陸前高田の矢作地区の横を通った際に同乗のT氏が「アレッ、白鳥?」と声をあげた。一帯は津波が遡上して土砂を運んで田んぼが埋まり、鉄路も流されて雑草の平原に姿を変えている所だが、少し低くなっているため水がたまって池のようになっている場所がある。運転しながら横目で見ると一瞬、首が長い白い大きな鳥が10数羽以上見えた。首の長さなどから白鷺か白鳥のようだが、確認はできていない。でも、優雅な白い鳥の一群を見たことは、自然界が努力する人間に与えてくれるだろうこれからの吉兆だと信じたい。

国見パーキングのノートの赤ペンの人物は「中木さん」でした。

  報告の最後に、これまで2回のボランティア報告で触れてきた東北自動車道下り線の国見パーキングの「交換ノート」について記す。今回も立ち寄ったところ、喫煙ルーム内の自由記入ノートが増えていたのはもちろんだが、横の食堂の柱に福島民報の記事(9月25日付)が張ってあった。ボランティアに出掛ける人びとの文章の一つひとつに、ていねいに赤ペンで返信を書いているのは中木トク子さん(61)だった。わが団塊世代と同年配ではないか。これも少しうれしくなった。この時は売店や調理場内には顔が見えなかったが、いつか必ずお会いしたい。

5月以降、あちこちでこのノートと赤ペンのことを話してきたが、紙面に載ったのは9月、それも全国紙ではない。常に温かい情報も探しているはずのメディア関係の皆さん、無名かも知れないが、都会でも地方でも各地には素晴らしい人がいることを知らせよう、知ってもらおうではないか。他のメディアの後追い記事でもいいではないか。報道とは何のため、誰のための仕事なのか、プロフェッショナルのアンテナと筆をいっそう磨きたいものだ。自戒を込めて結びの言としたい。(了)

追伸/皆さまから頂いた援助金は、持参したきな粉とゆであずき缶詰の他、往復のガソリン代として使用させていただきました。なお、宿泊費と滞在費、この時期に無料になった東北地方以外の有料道路代(首都高速、東北自動車道の大都市近郊区間代)はボランティア参加の各自が支出しました。感謝。(2012年1月吉日)

 

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