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安保法制に反対する声明!

     安全保障法制に反対する声明                 2015年7月17日
           憲法を考える法政大学教職員の会
集団的自衛権の行使容認を含む一連の安全保障法案につき、衆議院において採決された。法案がはらむ問題点が解明されたとはいえず、各種調査でも国民の大多数が審議を不十分としている中での拙速な採決は、議会制民主主義への挑戦にほかならない。
 そもそも今回の法案は、ほとんどの憲法学者や歴代の内閣法制局長官が指摘している通り、日本国憲法第九条に違反し、違憲である。安全保障上の緊急性が立法事実として指摘されているが、その内容のあいまいさから、適用範囲は無限に拡大されかねない。また、緊急性を理由に違憲性を顧みないとすれば、法の支配は毀損され、立憲主義は根底から破壊される。
 日本の戦後体制は、アジアを戦場とし、数多の他国民・自国民を死に追いやった無謀な侵略戦争への反省の上に築かれた。政治権力の暴走を繰り返すまいと、憲法によって権力行使を抑制する立憲主義体制が目指されてきた。昨年の閣議決定と今回の立法化は、政治権力の根幹である安全保障についての抑制を取り払い、曲がりなりにも形成されてきた自由で民主主義的な体制を脅かす。
 個別的自衛権を軸とする従来の日本の安全保障を、政府・与党は消極的と批判し、地域的な限定なしに自衛隊を派遣しうる「積極的平和主義」こそが国際貢献であるとする。しかしながら、平和への貢献は、「人間の安全保障」の推進や外交による近隣諸国との信頼醸成などが、きわめて重要である。軍事的拡張に軍事的に対抗することは、かえって危機を深化させかねない。
 大学は、学問の自由を前提として、普遍的な価値を追究し、その成果を次世代に継承するための場である。立憲主義を軽視する国家において、学問や言論への抑圧が進むことは歴史が証明している。かつて多くの学生が学業半ばにして戦地に赴かされた経緯をふまえれば、この歴史的な転回点において、大学が無関心であることはできない。すでに国立大学に対して人文・社会系の再編や、国旗・国歌の使用要請など一連の要請が行われていることも、大学人として看過できない。

 以上から、われわれ法政大学教職員の有志は、憲法違反の安全保障法制に反対し、一連の法案の撤回をここに要求するものである。

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 7月17日、全学規模で初回の集いを開催しました。

 報告者  建石真公子(法学部、憲法)
      宮﨑礼壹(法科大学院、元内閣法制局長官)

呼びかけ人(五十音順)
大﨑雄二(社会学部)、大中一彌(国際文化学部)、川上忠重(理工学部)、岸井大太郎(法学部)、栗山一男(理工学部)、児美川孝一郎(キャリアデザイン学部)、笹川孝一(キャリアデザイン学部)、佐貫浩(キャリアデザイン学部)、左巻健男(生命科学部)、島田雅彦(国際文化学部)、壽福眞美(社会学部)、杉田敦(法学部)、鈴木玲(大原社会問題研究所)、高柳俊男(国際文化学部)、建石真公子(法学部)、中澤けい(文学部)、中俣均(文学部)、長峰登記夫(人間環境学部)、西城戸誠(人間環境学部)、原伸子(経済学部)、松波淳也(経済学部)、宮﨑礼壹(法科大学院)、屋嘉宗彦(法学部)、山口二郎(法学部)、山田啓一(理工学部)

「川上徹さんとのお別れの会」に参列して

お別れ会今年1月2日、川上徹氏が逝去されました(享年74歳)。

64年再建全学連委員長、66年から72年まで民青中央常任委員を務め、新日和見主義批判で査問を受けた川上氏(40年生まれ以下同じ)のことは多くの方が知っておられることでしょう。

1月24日、日本青年館国際ホールで開催された「川上徹さんとのお別れの会」は300名の友人や偲ぶ方々で満席でした。12名の「お別れの言葉」とご子息の「お礼の言葉」を受けて、参列者全員の献花で締めくくられました。

実行委員長の梓澤和幸弁護士(43年)から法政大学OBにと案内状が届き、Y・K、M・K、J・Yが参列しました。私たちは2000年、法政大学学生運動の歴史編集委員会を立ち上げる際に川上氏と懇談させていただいたことがあります。

同時代社のHPでは実行委員に「素描・1960年代」共著の大窪一志氏、民青中央でともに活動した宗邦洋氏、「突破者」著者の宮崎学氏(45年)、ジャパンプレスの高野孟氏(44年)などが名を連ねており、会場では全学連元委員長の永戸祐三氏(47年)らをお見受けしました。受付でいただいた同時代社の袋には「お礼の言葉」や「お別れの言葉」そして同時代社出版録などが同封されていました。

略歴には「亀戸で生まれ。60年東大入学と共に日本共産党に入党。80年同時代社設立。90年日本共産党を離党」とあり、著書は『もう一度船を出せ』『査問』『アカ』『素描・1960年代』『戦後左翼たちの誕生と衰亡』と書いてありました。

「病状報告」によると2009年ごろから手足の痛みで、帝京大学付属病院で治療を受けていたが、病気をおして活動を続けたものの、2014年胃がんを告知され手術ができず、2015年1月2日永眠されたとのことです。

(喪主) 川上蓉子さんの「お礼の言葉」(抜粋)

60年大学生・青年運動のリーダーでしたが、10年余りで突然活動の場を失い、全ての道を断たれた40年余りの歳月、その後の生き方こそ川上徹の真骨頂であった。彼にはもう一冊書きとどめたいテーマがありました。

「45年の敗戦を幼児期で迎え、戦争の痛みのカケラを実感として受け止め、戦後の貧しさの中から明日への希望を求めて、60年安保を担った僕らの世代。しかし、時代の急速な変化がその世代を消した。左翼と呼ばれた様々な組織も今や消え去ろうとしている。それは左翼の側にも問題があったはずだ。僕らが見ようとしなかったもの、気がつかなかったもの、それを少しでも掬い取って、記録として残したい」

ノンポリの学生に過ぎなかった私が、彼に出会ったのは私にとって奇跡でした。彼が残してくれた沢山の物語と人が、私を勇気づけてくれるだろうと思っています。

配布されたお別れの言葉から(92名の中から抜粋)

高野孟氏(44年)

我々60年代を駆け抜けた世代が、もう一度頑張るとすれば、いったい何をどう頑張るのか、何度も話し合ってうまい答えが見つからないまま貴君はいなくなって、少々途方にくれていますが、なんとかその宿題を背負って生きていこうと思っています。

山科三郎氏(33年)

今、私の机の上に一冊の本があります。『トロツキズム』で、1969年に私と貴方とで編纂したものです。今から見れば問題だらけでも、20歳代の思考面目躍如たるものがあります。

田中武雄氏

1965年6月教養学部自治会再建となった時、法政大学での集会で川上さんから励ましと祝福を兼ねてのあいさつを受けました。

加藤哲郎氏(47年)

『査問』に解説「査問の背景」を書かせていただきました。そこに1972年に川上さんが「君が消えてくれるのが一番いいんだが」と査問者に言われたことを引き、「共産党が党史上最大規模の人権抑圧事件の被害者たちに謝罪するのは、いつになるだろうか」と結びました。あと10年、生き続けていただければ…。残念です。合掌。

吉田嘉清氏(26年)

84問題の時、西神田の同時代社川上徹さんはその場で水道橋の事務所を世話して下さいました。『古在由重 人・行動・思想 二十世紀日本の抵抗者』は同時代社から出版しました。いつも大同団結を心がけてくれた友よ。さよならだけが人生か。

お別れの言葉を述べた12名の中から

平田勝 花伝社社長

65年12月の全学連再建から50年。60年代学生運動の希望の人だった。戦後民主主義世代として育った。61年夏、党綱領決定の時は駒場の党員は数名だった。それが駒場本郷で民青1.000名となり東大生の一割となった。全国でも6つ7つあった。72年の政治的事件に連座し、その後学生運動は急速に衰退した。一つの時代、未完の時代が終わった。君の意思を引き継ぐことを信じるよ。

宗邦洋氏 民青元中央委員

12月11日、コレコン忘年会で飲んだ時は「やり残したことがある。あと5年生きる」と言っていた(これからの社会を考える懇談会)。民青中央の多数派が形成され、民青会館は楽しかったが党は弾圧で応えた。新日和見主義の連中で毎年一回集まり楽しい日を過ごしている。私は後5年頑張りたい。

山崎耕一郎氏(40) 社会主義協会顧問

2001年、三池闘争写真展をきっかけに共産党系、社会党系、新左翼系から三分の一ずつ集まりコレコンを始めた。三分の一のバランスが崩れないように集まってきたことで長生きしてきた。新左翼グループの代表的存在であった樋口篤三さんが2009年に亡くなり、川上さんが亡くなりコレコンのバランスが崩れてしまった。

高柳新氏(39) 民医連名誉会長

いくつかの顔の持ち主だった。学生運動のリーダー、古在・藤田・丸山の後継者、出版者。飲み仲間で医師としてセカンドオピニオンだった。もう一度船を出せの思いでいっぱいだ。

梓澤和幸氏(43) 全学連元委員長

62年11月27日、大管法反対・日韓条約粉砕集会(芝公園)で演壇の姿を見たのが初めての出会いでした。当時22歳と19歳。60年代学生運動の希望を託した凛然とした川上さんでした。査問後の孤独は彼の義侠心を侵すことはできなかった。古在、藤田と共に託そうとしたこと、次世代につなげることは言葉にしても伝えられない。2015年、大事な年の今日は始まりの日だ。母のように優しく見守って下さい。ある時は憤りの龍となって立ち上がれ。19歳の春に考えたことに立ち戻れ。

川上隆(高井隆)

父とは15年一緒にやってきた。父と同じことができるとは思っていないが、同時代社の旗を掲げ続けることが皆さんに報いることだと思っている。

あとがき

『学生運動:60年から70年へ』(日本青年出版社)が最初の出会いでした。学生時代に新日和見主義批判が始まり学友から「法政は無関係だよ」と聞きましたが、その後急速に学生運動が衰退していったことにずっと疑問を持ってきました。97年の『査問』でその実相の一端を知り、学生運動=全共闘というマスコミの喧伝に全学連の一員として闘った法政大学の学生運動を残そうと川上さんのお話を聞いたのが2000年でした。「まじめで大事なテーマだ。作る側の満足が大事だ」と励ましてくれました。「お別れの会」出席者の多くは60年代世代。70年代世代の私にとって「一時代が終わった」のは理解できても、このままでは終われないと思っています。    (JY)

戦争行くな!選挙に行こう!

戦争行くな! 選挙に行こう! 
安倍極右内閣は、断末魔的嘘と誤魔化し解散を強行しました。
安倍極右内閣は、集団的自衛権行使の閣議決定、原発再稼動、労働法制の改悪など暴走を続けていますが、結局、「アベノミクス」は富める者だけがますます富み更なる格差拡大をうみだすだけだということがはっきりして破綻し、国民の年金基金の大半を株式市場に投資したり、TPPを推進するという反動売国の道をさらに暴走しようとしています。
しかも、12月10日には秘密保護法が施行され言論表現の自由を政府の思うままコントロールしようとしています。
選挙論争ではアメリカ追随の安保法制には触れず、1票の格差はほとんどそのままに、憲法違反の選挙制度の下で偽多数派を掠め取ろうとしています。
加えて、「維新」をはじめとする「第三極」が安倍補完勢力として売国的右翼路線を加速させようとしています。
安倍暴走ストップ、政治を変えよう!
法政大学で共に学び学園民主化闘争を闘った私たちは、これらの勢力による九条をはじめとする平和憲法破壊の企てを許すことは出来ません!
69年間戦争をしなかった日本の誇りを継続し発展させるために、「若者は戦争に行くな! 選挙に行こう!」「意思を示そう、選挙に行こう!」を合い言葉として呼び掛けようではありませんか。
オール沖縄の勝利を日本全国に!
沖縄では“オナガ的統一戦線”による小選挙区候補を、各政党が支持して勝利する方法を確立しました。
沖縄に続き本土でも、安倍政権打倒! 憲法改悪反対! 脱原発! を推進する候補者を当選させるため、私たち法政の同窓は、それぞれの場で力を尽くすことを呼び掛けます!若者よ!戦争行くな!選挙に行こう!
意思を示そう、選挙に行こう!

ご案内  講演会『現代に生きるケストナー』 

    ご案内  講演会『現代に生きるケストナー』 
 
 皆さんは、ドキドキわくわくしながら何かを待っていたことはありませんか?少年や少女だった頃に。

 私にはありました。人とのふれあいに不器用だったので、本や漫画が届き、その中の世界に没頭して一緒に冒険することを待ち望んでいました。
 

 児童文学の世界は、色々なことを教えてくれました。
そして「ケストナー」は特に大きなプレゼントをしてくれました。

(「飛ぶ教室」「点子ちゃんとアントン」「エミールと探偵たち」etc.・・・)その頃読んだ本は今でもくっきりと鮮やかに印象が残っています。本を読むことで子どもの頃に培った価値観は、十分年を取った今でも、自分の考え方の理想や基礎として刻まれていると思うのです。

 正義感、大人の世界(世の中)の理不尽さ不公平や計算高さに怒ること、その中でも真っすぐ意欲を持って生きること、正々堂々とすること、卑怯な真似はしないことなど。
 ケストナー自身は第一次世界大戦・第二次世界大戦を経て、私たちの学生運動の時代まで生き、世の中に影響を与えた人です。(生1899年〜没1974年)
 特に、あのヒットラーの時代にドイツに居続け、自分のやり方で抵抗し続けたのは特筆に値します。
 私たちの『世の中への異議申し立て』にも参考になるのではないでしょうか。また若い世代への橋渡しのヒントにもなるのではと思っています。
 ケストナーを知り、沢山のヒントを得ることのできる今回の講演会は、九条の会の皆様にとって大変有意義だと思います。       
皆さん!待ってます!           社会 髙橋泉

日 時 2013年12月21日(土曜日) 午後2時~4時
場 所 エデュカス東京 地下1階 会費 金1,000円
講 師 法政大学Ⅱ部文学部 73年入学 井筒満さん(明治大学中野高校講師/文学教育研究者集団・委員長)
忘年会もあるよ!
場 所 12月21日(土曜日)午後5時~ さくら水産市谷支店