津波の街で春を待つ花―陸前高田ボランティア活動報告

雪が舞う中の北上

被災地へのボランティア参加では、これまで春や夏の呼びかけに都合が合わず機会を逸していたが、今回ようやく念願を果たすことができた。
1000年に一度の規模といわれた東日本大震災に、カンパなど自分のできる支援をなにがしかやってきたが、実際の状況をこの目で見、肌で感じて被災者と連帯することができたらと思っていた。
岩手の鈴木哲夫さんから今回またボランティアを呼びかけていただき、一緒に行きませんかという中村さんの誘いに“渡りに船”とばかりに乗った。年末の3連休は「金」のような時間なのだが、年内に震災地の情況を感じとる最後のチャンス。過ぎゆく時間を「お金」では買えない、この今が大事だと思って参加した。(Ⅱ社 T・T)

12月23日早朝、東京駅に集合し、7時半ころに立つ。今回の参加者は、Uさん、Nさん、Yさんと私の4名だが、みんな社会学部の同窓生となった。Nさんの道々の話によれば、Nさんが学生の動員係りで、Uさんは集まった学友たちを前に情勢や意義を訴えるという役回りだったとか。
途中2回休憩し渋滞も無く順調に北上、雪がチラホラと舞い時に地を這う。13時過ぎに一関に着き、昼食と買い物を済ませてから鈴木宅へ向かう。奥様に入れていただいた香り立つコーヒーをすすりながら、今日支援物資を配る陸前高田市下矢作地区について鈴木氏から説明を受けた。

津波の傷跡と回復と
鈴木氏はこの地区に継続して支援物資を届けている。地震直後、支援物資を積んで陸前高田に向かう途中、被災者にちょっと声をかけたことがきっかけだった。自治体指定の避難所に入れずにいたグループで、公の支援が十分届いていなかった。そこで、この地域に対する継続支援を自分の役割として決意したのだという。
住民との信頼関係も支援を重ねる中で徐々に深まったが、「津波さえなければ施しを受けることもなかったのに」と複雑な感情を持つ人もいる。被災地域のそうした状況も認識しておいてほしいとのレクチャーであった。
この下矢作地区は、津波に流されずに残った高田松原の一本松から気仙川を5キロ(ほぼ東京駅から飯田橋駅間に等しい距離)ほど上流に上ったところにある。津波の際、この地区一帯は住宅が1メートル以上水をかぶったと被災した住民から聞いた。屋根を越えるような浸水ではなかったため、家屋の流失は免れている。
支援物資の配布会場となった集会所も水をかぶったというが、今は補修もされそうした痕跡を家の中に留めてはいない。しかし、付近の道路脇のガードレールが根元から曲がったままの状態であちこちに放置されており、津波がここまで押し寄せたときの状況を想像するに十分な爪痕はまだたくさん残っている。
各地から届けられた衣類や食料、地元農家で作ったねぎなども積んで会場に運び込む。今回の目玉としてお正月の餅を配るということで、法政9条の会からいただいたカンパできな粉やあずきを買い足し、被災者に40セットを手渡すことができた。
以前の支援物資配布の際には、われ先にとデパートのバーゲンセールのつかみ合いにも似た光景もあったと山田さんから聞いたが、住民が主体的に配布の仕分けを手伝ったりするなど、殺気立つ雰囲気も無く、とても落ち着いた状況であった。

つるはしで花壇造りに挑む
二日目は、陸前高田のボランティアセンターに登録して活動する。ここに来ているボランティアは、われわれのような年配風ではなく、そのほとんどが20代、30代のグループのようだ。ボランティアセンターを通すと仕事のえり好みはできない。市内の個人宅の花壇整備を指示され、つるはし2本、剣先スコップ2本と行き先の地図を渡される。
現場は陸前高田の市街地を抜けた北の外れ。波にさらわれてがらんどうのビルはすでに撤去されたものの、辺りはいくつもの瓦礫の山になっている。かつて街並みのあった通りを、時折瓦礫撤去のダンプが行き交う。ルートが不明瞭になり、「あれ、これが市役所の通りだよね」と、Y氏が確認を求めてきたものの、辺り1キロ四方以上瓦礫だらけ。向こうに高田松原の一本松がぽつんと立つ姿が見えるだけである。カーナビに指示されている目印の店舗も何も役に立たない。ウロウロしながら現場を目指す。
電話をしたらすぐに迎えに現れた。ここは海が間近に見え、小高く伸びる丘のとば口に位置している。以前動物病院が建っていたが、それも津波がのみ込んだ。その場所に立って丘の上に目をやれば何事もなかったように家が建ち並ぶ。しかし、海側を向ければ、凹凸なく縮こまるかつての市街地が、大きく口を開けた水平線に呑み込まれてしまうのではないかと思うほどの、かつて見たことのない光景が広がる。
地権者で今回依頼者の吉田正子さんは、ここに花壇をつくるのだという。傾斜地に土が入れてあるが、そこを段々に耕し花を植えるのがわれわれに与えられたミッションだ。
ボランティアセンターからつるはしを持って行けと言われ、道路工事じゃーあるまいし、そんなものいつ使うのかといぶかったのだが、いざ現場で土に向かってみると、硬くてスコップが土の中に入らない。つるはしを力任せに振るってようやく土が割れてほぐれてくる。大小の石、貝殻や瀬戸物、ガラス、長い金属棒などが入り混じり、つるはしと剣先スコップで掘り起こす。これに肥料を加えて苗床を完成させ花を移植した。

一歩ずつ作りあげる夢
吉田さんは地元ではよく知られたガーデナーで、外国からもそうした関係者が訪ねてきているという。休憩所にしているビニールハウスの机の上に震災前の庭を紹介する記事の載った雑誌が置いてあった。津波にさらわれ土砂にうずもれてしまったところに、以前のような花壇をつくりたいという吉田さんの願いは少しずつ実現しつつある。津波の前、動物病院のあった場所には直径10メートルほどの円形花壇がすでに完成し、その真ん中には、クリスマスの時季ということもあって植木の木に飾りつけがしてあった。
吉田さんは広い土地の一面を花壇にしたいという。この日は我々を含めて何組かのグループ合わせて20人くらいは来ているだろうか。整地の済んだところからパンジーや葉牡丹の冬の花を移植している。ボランティアセンターからは午後2時までに帰るようにいわれたので、休憩時間を抜くと作業時間は3時間ほど。我々が荒れた土地を耕して花壇にできたのはせいぜい2~3坪くらいのものだ。我々が手伝えたのはほんの一部分でしかないのだが、ボランティアの力を借り、吉田さんはきっとすばらしい花壇を完成させるだろう。
今回植えつけた花は厳しい寒さにも耐え、春先まで行き交う人や訪れる人みんなの目を楽しませてくれるだろうと吉田さんは話す。「今日はありがとう。また花壇を見に来てくださいね」と笑顔で見送ってくれた。

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