岩手・被災地に行って

2012年2月1日   中村 雅子 (Ⅱ社)

昨年12月23日~25日、岩手県の被災地に行きました。参加者は、法政同窓生9条の会のメンバー4人です。
23日午前7時30分東京駅前を出発し、Yさんの車で一路東北へ。渋滞もなく天気にも恵まれ、昼過ぎには一関に到着し、鈴木哲夫さんのお宅で、被災者支援についてのレクチャ―を受けました。
鈴木さん曰く、「被災者は、支援物資をもらうのは助かることだけど、津波さえなければ人様から施しを受けることはないという忸怩たる思いを持っているので、接する際に配慮してほしい」と。いきなり、「支援」の単純ではないことを知らされました。

(下矢作地区)
支援物資を持って行った陸前高田市下矢作は、気仙川の支流沿いにある地域で、海岸からはだいぶ離れていますが、津波は気仙川を遡って河口の千本松原の松を根こそぎ運んできたそうです。川沿いの大船渡線の線路もここで途切れています。道路のガードレールもあちらこちらでひん曲がって津波の力の強さを物語っています。がれきは撤去されていますが、鉄道復旧工事は着手されていないようです。
鈴木さんは、たまたまこの下矢作地区を通りかかった時、みんなが集会所を掃除していたので立ち寄って事情を聞いたところ、この地区は、津波が来て自宅の1階部分はダメになったけれど、建物が残ったので仮設住宅には入れない、支援物資は何も来ないというので、ここを定点支援地域にすることに決めたのだそうです。
用意していった40世帯分の餅、きな粉、小豆、海苔、リンゴジュース、醤油などの調味料は地元の人たちの協力で手際よく配られましたが、なかでも、ネギ、ブロッコリーなどの野菜は歓声が上がるほど喜ばれました。新鮮な野菜が不足しているのでしょう。1階部分が津波に荒らされたとはいえ、自宅が残ったこの地区でさえ、10カ月たった今も支援を待たなければならない不自由な生活をしています。
集まった人たちのなかで、中心になってその場を取り仕切っていた婦人から「気持ちだから受け取ってほしい」と菓子折りをいただきました。中身は自家製の干し柿です。鈴木さんの言った「忸怩たる思い」への精一杯の気持ちでしょうね、ありがたくいただきました。
(あづま荘)
23日の宿は、大船渡市三陸町越喜来(おきらい)の船宿「あづま荘」です。
宿は、リアス式海岸の岬の中ほどの高台にあり、津波は宿のすぐ下まで来たそうです。眼下の港は民家も漁協組合などの建物も跡形もなく、地震による地盤沈下で、船着き場の高さと海面が同じになり、船を着けることができなくなったそうです。今も土盛とかの工事がされている様子はなく、港はしんとしたままです。
鈴木さんが宿の主人と話しているのを漏れ聞いていると、持ち船3艘を流されてしまい、これまでその3艘で定置網漁をやっていたのができなくなったこと、再建するには1億円かかるからもう無理だということでした。鈴木さんも「そんなにするの!」と驚いていました。
(陸前高田市米崎の丘で)
24日は、9時30分にボランティアセンターに到着しました。ボランティアは初めての経験なので、少し気おくれを感じていましたが、センターは朝から活気にあふれ、てきぱきと作業の振り分け、ボランティアの心構えなど説明があり、グループごとに次々と出かけていました。私たちは個人からの要請で花壇づくりの手伝いをすることになり、つるはしとスコップとバケツをもって出かけました。
場所は、市の北寄り、湾にちょっと突き出ている米崎の付け根に近い小高いところで、ここには動物病院をはじめ住宅が建っていたということですが、今は津波で跡形もなく、こんな高台まで津波が来たのかと驚きました。その一段上の住宅から奥のほうは、何事もなかったかのように家並みが続き、そのコントラストがとても不思議でした。
丘の中心にクリスマスツリーが飾られ、(そうだ!今日はクリスマスイヴだ)、そこから円形に花壇の形が作られてきていますが、私たちの仕事は斜面の荒れ地を耕し、パンジーや葉ボタンを植えること。つるはしとスコップはもっぱら男性陣に任せ、花を植えることに専念しました。
米崎の丘からは陸前高田市の元市街地が一望に見渡せますが、今動いているのは瓦礫を片付けているブルドーザー、シャベルカー、ダンプカーばかりです。ドラゴンレール大船渡線のあったところは、線路が消え、沿線の駅も流されたままで跡形もありません。
しかし、10か月経ってもこんなものなのでしょうか。平地は津波で流されたので、今後この地には何も建設されないということなのでしょうか。確かに、市役所も山間に仮設が建てられていました。コンビニなども津波のこない安全な場所に仮店舗が建てられていました。市民はどうしているのかと気になります。
(出会った人)
ボランティアセンターに花壇づくりを要請した吉田正子さんは、この丘の下にあった自宅を津波で流され、今は仮設住宅住まいです。市民の憩いの場所だった高田松原が根こそぎ津波で流されてしまったので、この丘全体を花いっぱいにして新たな憩いの場を作ろうと、地権者から土地を借り受けたとのこと。
彼女は、3月11日出先で地震に遭い、急いで自宅に引き返し、各部屋の状況を写真に撮っています。アルバムをみせてもらいましたが、「2階のピアノの部屋が無事だった」などのコメントがあり、最後の頁に、「これが全部津波で流されるとは!」と書いてありました。写真を撮り終わった後、津波だというので、ご主人を促して高いところへ逃げて助かったそうです。ずいぶん落ち着いた人だなあと感心しました。動物病院に預けていた2匹の犬のうち、1匹しか助けられなかったと、そのことはとても悲しそうに話してくださいました。
大変な被害に遭われたことを淡々と話す吉田さんは、花壇づくりを思い立ったのも、「みんなが見てほっとするでしょ」と。花壇づくりの私たちへの指示も、こうでなければだめだ、というのではなく、自分の感性を発揮してください、植え方はお任せしますとおっしゃる。無理をしないでゆっくりね、とも。素敵な女性でした。
私たちの友人鈴木哲夫さんも、3月以来支援物資を運び続けています。と簡単に言いますが、一関の彼の自宅から陸前高田までは車で片道1時間以上かかります。地形の険しい三陸地方の道は、くねくねと曲がり、高低差が激しく往復するのは難儀なことだと現地に行ってみて実感しました。
(これから)
東京にいては被災地の状況がわからないので、是非行ってみたいと思い、今回やっと実現しました。実際に現地に立ってみて、津波の被害の大きさに圧倒されました。でも瓦礫はほぼ片付いて、5月に行った人たちのような緊張感や恐怖感とは程遠いのだと思います。短い滞在では、市民生活がどこまで回復しているかが見えませんでした。がらんとした元市街地や何もない港は復旧の遅れを表してはいないでしょうか。
この10か月間、国や政府は本気で被災者を助けるための対策をとったのかも気になります。陸前高田市の戸羽太市長が「被災地の本当の話をしよう」という本で、国会議員が来ても、市庁舎の前で記念写真と撮っていくだけだと書いていましたが、今後、被災者が希望をもって生活できるためにどのような施策がとられるのか、国の動きを監視することも必要だと思いました。
被災地は陸前高田だけではないけれど、とりあえず、手掛かりのあるところから、私たちのできることからやっていくこと、やり続けることが必要だと痛切に感じました。そして、被災地を忘れないことも。
機会があったら、皆さんも是非、現地に行ってみてください。

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